「どうしたのだ、ソヨン」
ソンジンと共に訪うた観察使の内衙。
接客の間に通されて程無くして、 驚いたように目を見開いた観察使が部屋の中へと入って来る。
「昨夜会ったばかりで、訪うてくれるとは嬉しいが」
「突然のご無礼をお許しください、大監」
頭を下げる私に、そして部屋の私の横に控えるソンジンに目を当て、 観察使はゆっくりと卓の椅子へ腰を下ろす。
それを見極め続いて私が腰を下ろし、ソンジンは頭を上げた。
「昨夜、妓楼からの帰途で牧使の息子の供の二人に襲われました」
私の淡々とした声に、観察使は困ったように息を吐く。
「据えた灸も効かぬのでは、救いようもないな。理由は」
「科挙に合格せぬのは私の所為と」
「愚か者め、だから合格せぬのだ」
呆れたように首を振り、観察使は此方を見つめた。
「察するに、此方の男が救ったか」
「おっしゃる通りです。牧使の息子から何か届は」
「初耳だ。となればその供は、牧使の家人でなく金で雇った町の輩だな」
「恐らくは」
「場所は何処だ」
「昨夜の妓楼から、宅へ戻る辻を超えた一本道です」
「・・・成程」
ようやく合点が行ったのか、観察使は頬を緩めた。
「今朝方早く、あのあたりで怪我人が出たと届があった。
一人は腹を、もう一人は腕と足を斬られておるが、その男たちか」
私が立ったままのソンジンを仰ぎ見ると、ソンジンは無言で頷いた。
「随分と鋭い太刀筋と宣化堂に報告が来ていたが。そうか、そなたが斬ったのか」
何故か満足げに頷きながら、観察使はソンジンを改めて眺める。
「そなたの名は」
「・・・ソンジンです」
ソンジンが低く、短く答える。
「ソンジンか」
それ以上口を開かないままのソンジンから私へと目を戻し、観察使はにこやかに頷いた。
「で、今日はどうした事だ。昨日の件なら分かり次第連絡をするが」
「いえ、実は大監」
「うむ」
「今日はどうしても別途大監にお伺いしたき事があり、参りました」
「聞きたい事とな」
「はい」
私は頷いて、昨日のソンジンの傷の血で所々が染まった医書を懐から取り出して、卓の上を観察使へと向けて押し出した。
「・・・これは、医方類聚の写しか」
「おっしゃる通りです、大監」
「写しとは言え、これ程貴重な物を良く入手したな」
「贅沢を致しました」
私の声に、観察使が大きく笑って首を振る。
「こうした贅沢こそ真の贅沢だ。良い事だ。しかし儂は医には暗い」
そう言って、此方を不思議そうに眺める。
「この年寄りよりソヨン、そなたの方が余程明るい」
「いえ、実はこの中の表記の事で」
私は椅子から腰を浮かし件の恭愍王の一節まで頁を繰ると、観察使の目の前でその部分を指で辿り始めた。
「高麗の恭愍王様とは、一体いつ頃の方なのでしょう」
「ああ、そういう事か」
観察使は頷くと、
「高麗三十一代王、恭愍仁文義武勇智明烈敬孝大王であらせられる。
当時明国への過渡期であった元の胡服辮髪令を解かれ、双城総管府の奪還を成された王だ。
倭寇と紅巾族を退けた方でもある。ふむ、医書に目を通す機会は滅多にないが」
私の指した一節を目で追いつつ、観察使は愉しそうに頷いた。
「このような事も記されておるか。なかなか興味深い」
「どれ程前の事なのでしょう」
読書に没頭しそうな観察使を牽制し、そう問い掛けてみる。
「その、恭愍王様の御代というのは」
「御代、か」
ようやく医書から目を上げた観察使は、その目を天井へ投げ上げた。
「この頃は北元の宣光年号や、明国の年号が入り乱れておるからな。しかし、今よりざっと百と五十年ほど前だ」
「・・・百と、五十年」
「ところでソヨン」
観察使は、刃先で斬られた箇所に指を当てる。
「此処に記されておったのは」
「ああ、崔瑩大将軍の御名が」
「太祖が建国時に倒された高麗大将軍だな」
「・・・そうなのですか?」
「列伝に載っておられる。剛直にして忠臣、なおかつ清廉、正しく見金如石の御仁でいらしたとな。
太祖は建国後、直ぐに崔瑩大将軍の罪を消し、汚名を雪いで、御自ら武慇の諡を送られている」
「・・・そうでしたか」
「で、そなたが何故崔瑩大将軍の事を」
「あ、いえ、私が知りたいのは此方の方です」
私は指先を動かし、医仙 柳 恩綏の部分を示す。
「この方について、何か御存知ですか」
「いや、知らぬ。初めて拝見する御名だ。察するに、どうやら女人であられるようだが」
その箇所を丹念に目で追いつつ、観察使は首を傾げる。
「医仙と言えば高麗時代の医官最高位。内医院の都提調殿より更に高位だ。無冠ではあるが。
女人がそのような位に就けるものなのか」
「それ程、高位の方なのですか」
観察使の声に、思わず息を呑む。
王様の御典医、内医院の都提調より更に上など、想像もつかない。
ソンジンの言った意味が、今になってよく判る。
俺の知る医官は、女人という事を決して安売りしない。
それでも外も中も医術の腕も、目が醒める程美しい。
それはそうだ。 女を売りにして登れる階など、せいぜいが王様の承恩尚宮。
一夜の御恩を頂いてそれ故に宮中の隅に追いやられ、細々と暮らしていくくらいのものだろう。
「少なくともこの医書には、そう記されておる。
どうした、そなたもこの方のよう、女人の身で医を究めたくなったか」
「いいえ、まさか。とんでもない事です・・・」
「この方については伺った事が無い。知りたくば、宮中の医書を調べるしかないかもしれぬな。
列伝には載っておられぬ。という事は、医書くらいしか手掛かりはない」
「宮中の、医書・・・」
「ああ。宮中ならば郷薬救急方や、そなたの持つこの医方類聚の原本が全巻揃っておるだろう」
私は頭を上げソンジンを仰ぐ。
ソンジンは黒い眸を、観察使の接客間の窓の外、白い夏の庭に当てている。

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さらんさん、今日もお話を拝読させて頂き、ありがとうございます。
自分の気持ちを抑えて、ソンジンの知りたい情報を掴もうとするソヨンは、なんと健気なのでしょう。
ウンスに心の全てを注ぐソンジンには、こんなに近くにいても、ソヨンの気持ちは読み取れないのですね…あぁ、誰もが哀しいですね。
さらんさん、漢文もお得意なのですか?
∑(゚Д゚) なんという博識!