紅蓮・勢 | 73

 

 

テマンが水刺房から持ち帰った差入れを卓上へ広げる。
医員や薬員たちがそれを囲んで思わぬ宴会が始まった。
この方は部屋の椅子の上に膝を抱えて丸まって座り、飲み食いする医官や薬員と長閑に言葉を交わしている。
少し離れた徳興君の寝台の脇、壁に凭れて立ったままその様子を見る。

徳興君は起きる気配はない。
閉じた目や息の様子から狸寝入りとは思えない。
体を丸めたあの方は気を抜くと後ろの壁にぐたりと凭れ、相当に辛そうに怠そうにしている。

考えれば当然だ。
双城総管府から馬を駆り、足掛け二日で今日の昼前に帰京したばかり。
その直後に腕を落とした徳興君の治療をしている。
どれだけ気を張ろうと女人の身では、いつ倒れても不思議はない。

「ではウンス様、我々はそろそろ」
一息ついたところで帰宅する医員や薬員たちが、三々五々腰を上げて此方へと頭を下げた。
「大護軍様、御言葉に甘えてご馳走になりました」
「ご苦労だったな」
「おやすみなさい。また明日ね」

俺の声に微笑みこの方へ頭を下げて、医員や薬員が扉を抜けて行く。
それに合わせるよう宿直の薬員や医官が立ち上がり
「ではウンス様、我らは宿直部屋へ。
患者は交代で診ますので、ウンス様はどうぞお休みください」
頭を下げる医員へ向かい、この方は頑固に首を振る。
「うーん。さすがに腕の切断だし、ないと思うけど急変や大量出血も怖いし。今晩だけは私が診るわ」
「しかし」
医員たちが不安げに椅子に丸まったこの方を見る。
「戦より戻られたばかりです。お疲れでしょう」
「ううん、大丈夫。明日からは交代でお願い」

言い出せば聞かぬ方だ。それは皆判っておるのだろう。
医官は困り果てたように小さく息を吐いた。

「畏まりました。いつでも御声をお掛け下さい。私たちも交代で様子を見に参りますから、ご安心を」
掛けられた気遣いの声に、この方は嬉しそうに頷いた。

 

皆が退出した後の室内は三人の息遣いしか聞こえない。

徳興君の枕元だけを煌煌と油灯が照らしている。
揺れる灯の中、椅子の上のこの方の頭ががくりと落ちる。
気付いて瞬いた目を手の甲で擦り、椅子から立ち上がると
「うーん」
大きく唸りながら両腕を天井へ向かって伸ばし肩を大きく回し、片手で逆肩を揉みながら
「じっとしちゃうと寝ちゃう」

悪戯な声で言って、この方は顔を顰めて見せた。
しかし顔色は酷く悪く、目の下には土色の隈が出来ている。
「様子が変われば声を掛けます。それまでは」
そう言うとこの方は頷いて、俺の許へと椅子を運ぶ。
「じゃあヨンアがここに座って」
仕方なく椅子へ腰を掛ける。そうせねばこの方は休まない。

ようやく腰掛けた俺に安堵するよう息を吐き、この方はくたりと床に座り込む。
そして椅子に腰かけたこの膝の上へ投げ出すように小さな頭を乗せた。
「あなたはほんとに寝なくて平気?こいつ、起きたってしばらく何もできないわよ」
この膝に頭を乗せたまま心配げに呟くあなたへ首を振る。
「腕を失くそうと足がある。逃げられれば大事です」
「誰かに代わりに見てもらわないでいいの?」
「皆疲れている。明日からの事もある。今宵は俺が」

この方の両脇に腕を差し入れ床から立たせながら伝えると、怠そうに立ち上がるこの方が深く息をする。
「情けないなあ。これくらいで根をあげてたらダメなのに」
弱音を吐くくらいでちょうど良い。甘えるくらいで。
珍しくしおらしい様子で項垂れるこの方を、鼠から最も離れた寝台へと横たえ、小さな体を掛布で覆う。
覆った上から細い肩を摩り、額に落ちた髪を撫でつけ、白い頬をこの掌で包む。
この方は猫のように目を細め、満足げに息をつくと
「なんかあったら、必ず起こして」
眠そうな声で呟き、長い睫毛を静かに伏せた。

息が深くなるのを確かめて静かに其処から歩き出す。
足音を殺し徳興君の寝台を素通りし、扉の前に立ち
「入れ」
それだけ告げて開く。
扉影からキム侍医が、静かに部屋内へと滑り込む。
「今寝入ったところだ。此処を空ける訳にはいかん。話なら手短にしろ」

俺の声にキム侍医は無言のまま懐から鍼を刺した布を出す。
そして此方へ目を当てると、唇の動きだけで言った。
「あの男に鍼を打たせてください」
「断る」
「信用できませんか」
「全く出来んな」
「まあ、当然ですね」

苦く笑って、侍医は頷いた。
「チェ・ヨン殿。機会を逃すわけにはいきません。明日になれば奴は目を覚ます。
覚ました時右腕が動かねば言い訳も立つ。手術の影響だと。
しかし一度動いた右手が突然動かなくなれば怪しまれます。今しかない」
思い詰めた侍医の、その様子に小さく尋ねる。
「何をするつもりだ」
「二度と毒を遣えぬ程度に、右腕の経穴に鍼を打ちます」
「どういう意味だ」
「命を奪いまではしません。一生麻痺させるのみ。
そうでもせねばこの男は腕一本でも、何をするか判らない」
「そう言いながら、経穴を突いて殺めるつもりか」

この問いに侍医は己の立場を忘れたよう低く噴き出した。
「私はとことんチェ・ヨン殿の信用を失ったようだ」
「そうだな。毒を遣う者は信用せぬ」
その言葉に侍医は頷いた。
「それでも大護軍殿を裏切りはしない。次に彼女と会う時に恥になるようなことはしたくない」

そして真直ぐ俺を見つめて、こいつは頭を下げた。
「この男に触れるのは最後です。二度と触れようとも思わない。
ただ最後に彼女を奪った男の右腕を、私にくれませんか」

俺は左腕を落とした。王様は最も残忍な方法で生かす。
侍医だけが無念の中で生きるのは不公平なのか。
考える間もない。
いつ何時宿直の医官や薬員が、徳興君の具合を見に来ないとも限らん。

「絶対に殺さぬと誓うな」
「はい」
「右腕だけだな」
「はい」
「早くしろ。何時他の者が来るか知れん」

その声に侍医がもう一度深く頭を下げる。
そのまま素早く徳興君の寝台へ寄ると鍼刺しから一本鍼を抜き、枕元の油灯へと照らす。
光るその鍼先に毒が塗ってあれば全て終わりだ。
俺に確かめる術などない。

それでもこの男にあの時あの方が叫んだ真意が、あの涙が伝わったと思いたい。

侍医は静かに息を整えると、横たわる徳興君の右袖を捲る。
剝き出しになったその腕に己の指先を滑らせ、目当ての場所をようやく捕らえたか、肘の後ろ辺りで指先が止まる。

それが生かす経穴か、弑す経穴かは判らん。

鍼を指先で持ち直し、最後に侍医は俺を見た。
「チェ・ヨン殿、感謝します」
その声に顎で頷く。
「貸しだ。これからお前を信用できるようにしてくれ」

俺が声を返すと口端で苦く笑み、指先で抑えた経穴に侍医はその鍼先を迷いなく突き刺した。
徳興君の息遣いは変わらない。胸も小さく規則的に上下したままだ。

侍医が鍼を抜く。
そして白布に鍼を受け、鍼先を確かめると満足げに頷き、鍼刺しへと鍼を戻す。
黙って最後に頭を下げると来た時と同じよう静かに扉まで進み、扉を開くとその隙間から外の闇へと滑り出た。

 

 

 

 

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