紅蓮・勢 | 74 (終)

 

 

「・・・おかしいなあ」

朝日の射し込む部屋の中。
この方は徳興君の脈を診た指を静かに離し首を傾げた。
それすら平静に見守ることが出来る。
もし侍医が昨夜来ねば、奴が鍼を打たねば、今この方が脈を取るのをこれ程静かに見守ることはできん。

寝たふりをしておらぬか。此方を謀っておらぬか。
その残った片腕に、何か仕込んではおらぬのか。
気がおかしくなるほどに見詰め続けたはずだ。

徳興君は変わらぬ。
憎いほど静かな息を繰り返し、横たわる顔に苦悶の表情は一切浮かぶことはない。
一夜を超えても全く穏やかなものだ。

「如何しました」
それでも俺が許した。何かあれば俺の責だ。
夜中に忍び込んだ侍医に鍼を打つのを許した以上、その責は全て俺が負う。
「徳興君の腕が弛緩してる。神経が・・・」
そう言いながらこの方が徳興君の右手を持ちあげる。
少し上げて手を離し腕がばたりと寝台に落ちるのを目を細めて幾度か確かめる。
「右腕には何の異常もないはずなのに」
「死にますか」

単刀直入な物言いに、この方は首を振る。
「バイタルも呼吸も正常。死ぬわけじゃないわ。
でもこれ、回復しなかったら、運動機能は・・・ああ、えーと、一生うまく動かないかも。
握力は残ってるし着替や食事は自力で出来るだろうけど、それ以上は無理かもしれない」
その答に肚裡で頷く。侍医の宣言通りだ。
本当に二度と毒を遣えぬよう、腕だけ持って行ったか。

納得できぬよう首を捻るこの方の許、宿直の薬員や医官が治療部屋に集まってくる。

「昨夜遅く、脈を診に来た時には特に気付かず」
医員のその声にこの方は頷いた。
「大護軍様がついて居て下さいましたし、安心してそのまま下がってしまいました」
己を責めるような医官の声に、この方は慌てて
「ううん、誰のせいでもないの。第一ある意味安心だわ」

そう言って不思議そうな医官たちの目にぶつかり、
「全く動かなくなれば要介護だもの。誰かが必ずつきっきりで面倒見なきゃならない。
でもそうはなりそうもない。動く事は動くもの。こんなにうまく事が・・・」
そこまで言って、一歩下り控える此方を振り返ると
「ヨンア?」
静かに呼ぶ声に俺は眸を上げる。

「昨日、ずっと見ててくれたよね」
「ええ」
「そうだよね・・・」
「はい、見ておりました」

そうだ。黙って見ていた。
信用できぬあの男の鍼先の動きを止めることも、邪魔することもなく。
その時周囲の騒がしさに気づいたか、寝台の徳興君が呻き、その瞼が開いた。

「気が付いた?」
開いた目に向け、この方が問う。
「お前は」
「久々に会った命の恩人をお前呼ばわりとは、相変わらずね。ほんとあんたって」
吐き捨てるように言い、この方が鋭く息を吐いた。
「いいわ。変わらないんだろうし。ちょっとこの手を握って」

そう言って差し出した手を、徳興君が握る。
「本気で握って」
「握っておる」
「・・・そう」
この方はそう言って、手を握らせたまま腕を上げる。
途中までついてきた徳興君の腕は、肘を伸ばしきる前に力を失うように寝台へと音を立てて落ちた。

その場に居合わせる誰よりも一番驚いた顔で、徳興君が落ちた己の右手をぎょっとしたように見る。
「どうなっておる」
「後遺症、でしょうね。調べようもないわ。測定機器もないし。リハ・・・訓練で、今より少しくらいは動かせるようになる」

この方が徳興君の耳元へと顔を寄せ
「左手は失くした。右手は動かない。二度と毒は使えないわ。
これでどの医官にも薬員にも、あんたの治療や投薬を安心して任せられる」
周囲の耳に届かぬよう囁く声に、徳興君は茫然とした様子で治療室の天井をただ見つめ続けた。

「おはようございます」
室内へ入って来た侍医に、その場の皆の声がかかる。
「キム先生、おはようございます」
「具合は如何ですか、無理されては」
「ぐ、あい、と」

歩み寄ったこの方が偶然を装い、侍医のその沓の爪先を思い切り踏みつけた。
「い!」
痛みに思わず小さく跳ねた侍医に、わざとらしく目を開き
「ごめ~ん、キム先生気が付かなかった!ねえ、腰、大丈夫?」

その声にキム侍医は苦く笑みながら
「ああ・・・そう、腰。腰でしたね、ええ、今朝はだいぶ、いえほとんど」
明後日の方を向きながら棒読みでそう言う侍医の声に頷き、この方が花のように笑んだ。
「徳興君が目を覚ましたの」
「・・・そうですか」
「右腕が動かなくなってる」
「そうでしたか」
横たわったままの徳興君の寝台へ目を当て、侍医は頷いた。

「十全大補湯と参茸補血丸を出しましょう。流れた気血を補わねばなりません。
合わせて失笑散を。瘀血を流せば、少しは改善するやもしれません」
「やだ、すごい!」
突然上がったこの方の高い声に、部屋の皆の目が集まった。
「私今回の戦で、刀傷を負った人に出したわ。十全大補湯と参茸補血丸。正解だったのね!」

場を和ませる素頓狂な声に、集まった目がみな笑う。
侍医も頷くと、ようやくゆっくりと笑った。
嘘も偽りもない笑み。
それが証に今まで貼り付けていたような偽の笑いより、ずっと不器用な笑み顔で。

いつもそうだ。この方は結局こうして味方に付ける、誰も彼も。

その陰で一人泣きながら。命に向かい合い苦しみながら。
孤独の闇の中、掌を握り締めて祈りながら。
疲れ切った夜中の部屋で、立ち上がれずに床にへたり込みこの膝に身を任せても、翌朝にはこうして笑う。

俺だけが知る、俺だけのイムジャ。
それで良い。俺はこの力の全てで護る。
その笑顔も、涙も、喜びも、苦しみも。
隠す事などない。俺の前では。
全て受け止め、受け入れる。
あなたが俺の為にだけ其処にいるように、俺はあなたの為にだけ此処にいる。
そして呟く。
此処におります。あなたが二度と迷わぬように。

 

*****

 

「あの男の右腕が、動かなくなった」
御前でお伝えすると、御目が見開かれた。
「天罰か、いや、天恵か。二度と毒は操れぬな」
「は」
「腕の傷さえ癒えれば、安堵して警護の者をつけられる」
「は」

康安殿の私室の中、王様はようやく息を吐いた。
「何よりだ」
その御声に頷き、俺は懐から重い金の塊を引き摺りだした。
「お返しいたします」

卓の上。ごとりと置いた号牌に王様の御目が当たる。

「そなたに授けたのだ」
「戦は終わりました。必要ございませぬ」
「この後、何が起きるか知れぬ。寡人の代わりに何時その声を飛ばさせるかも知れぬ」
「その時改めてお授け下さい。王様のお側にいる限り、王様の御声がございます」
「これがあれば、天下も取れよう」
「既に王様という天を頂いております」
「大護軍には欲はないのか」
「ありませぬ」

その御声に即答する。
「双城総管府落城の手柄を立て、高麗の百有余年の宿願を果たし、謀反人を無事捕らえて来てもか」
「は」
俺の返答に王様は苦く笑む。
「医仙だけか」

その御声に顔を上げ、背を伸ばし、王様の御目を覗き込み
「はい」
はっきりと頷いた声に王様は頷き返した。
「相変わらずだな」

俺は深く頭を下げる。
「王様」
「何だ」
「もしも許されるならば、一つだけ」
「何でも聞こう、忌憚なく申せ」

その先を急くような御声に息を吸い込み、暫し惑う。

室内の水を打ったような静寂が厭わしい。
余りの静けさに頭が痛い。
己の耳の中、早まる鼓動が響き渡る。

内官たちすら何を言うかと、息を詰めて此方を見ている。
お前らには関係ない。彼方を向いてくれ。此方を見るな。
何でもない。些末な事だ。右から左へ聞き流せば良い。

判っている。惑うている時ではない。言わねばならん。
どれ程気恥ずかしかろうと、これ以上は待つ事も待たせる事も出来ぬ。
心が痛すぎて出来ぬ。
王様にお許しを頂けねば、事はこれ以上前に進まぬ。

「・・・医仙との婚儀を、なるべく早めたく」

眸を逸らし呟いた蚊の鳴くような情けない声。
次の瞬間王様が噴き出された。
「・・・済まぬ大護軍、そなたに笑うたのではない。そうではない」
御目に涙まで薄らと浮かべ、王様は拳でご自身の御口元を隠し、空咳払いを繰り返される。
「そうであったか。そうか、そうか」

幾度も呟かれた後、最後に此方をゆっくりとご覧になり
「そうか・・・」
御目を細め涙を拭われた王様は、大きく深く頷いて下さった。

 

*****

 

「大護軍!」
典医寺へ駆け戻った俺を、庭から走ってきたテマンが呼ぶ。
「ど、どうしたんですか、そんなに急いで」
呼び声にも足を止めず擦れ違っても駆け続ける俺に添い、驚いたような声音でテマンは問うた。
「何でもない」
言いながら診療部屋へ向かう俺にその首が傾げられる。

「イムジャ」
診療部屋へ駈け込み呼ぶと、キム侍医が振り返る。
「あの方は」
「ウンス殿は、お」

その時ばあん、と開かれた扉の音に、俺と侍医とが振り返る。

そうだ、こうして思い出す。
この方には扉の開け方からお教えせねばならぬと。
この先に子を授かれば、そんな騒々しくては泣かせてしまおう。
「どうしたの、何かあったの?なんでそんな慌てて」

そう言って此方へ駆けてくるその長い髪、小さな体。
俺の腕の中に納まりこの眸を覗き込む鳶色の瞳。
心配そうに小さく、短い息を繰り返すその唇。
頬に手を当て顔を撫で、頸に、手首の血脈に当たる温もり。

この手だ。暖かいこの指だ。

俺が選び、俺を選んでくださった小さな手だ。
俺が護りたいと願う、俺を護りたいと祈る唯一人の方だ。
天界の言葉に込める総ての想いを教え続けて下さる方だ。

離れることはない。もう二度と。

腕の中のこの方を力の限り抱き締める。
押し潰さぬよう折らぬよう、そう考える暇もないほどに。
抱き締めて近付いた小さな顔が耳許に押し付けられる。
「ヨ、ヨンア?ちょっ、とだけ苦し」
「婚儀だ」
呟いてようやく少しだけ、この方を離す。
「え?」
丸くなったその目を見詰め、確りと告げる。
「婚儀です」

白い頬が紅く染まっていくのを見詰めながら繰り返す。
「ようやく約束が守れる」
「ヨンア」

その瞬間周囲から起きた大きな歓声と拍手に、この方が慌てて後ろを振り返る。
典医寺の皆がそこに立ち、嬉しそうに笑んでいる。
女人の薬員たちは涙ぐみ、男の医官たちは盛大に声を上げる。
「何とおめでたい!」
「おめでとうございます!」
「大護軍様、ウンス様、本当に」
「本当に、おめでとうございます!」

侍医がその声の中、静かに此方へ寄ってくる。
「チェ・ヨン殿、ウンス殿、おめでとうございます」
その顔に浮かぶのはあの張り付けたような笑みだ。
次の瞬間、その笑みはにやりと企んだものに代わる。

「チェ・ヨン殿。人の口に戸は立てられません。これからどれほど噂が広まるか。愉快愉快」

そう言いながら堪え切れぬように下を向いて顔を隠し、懐手の侍医はくつくつ笑う。
「お前、性格が悪いんだな」
ぼそりと呟いた俺の声に
「今更そうおっしゃられても。生来ですから」
悪戯な目を上げて斜めにこちらを見る奴に向かい、俺は太く息を吐いた。

 

部屋の中で湧いた大きな声に、窓から中を覗き込む。
大護軍の心から嬉しそうな顔。 医仙の泣き出しそうな笑い顔。
それが見られれば俺はそれだけでいい。
これから二人は、絶対に幸せになるんだ。
みんなが待ってる。みんなが祈ってる。自分の事みたいに。
それを知ってるから、俺は必ず護る。
大護軍を、そして大護軍の誰より大切な医仙を。
俺の兄さんみたいな、父さんみたいな大護軍を。
俺の姉さんみたいな、母さんみたいな医仙を。

ヒドヒョンに最初に教えてやんなきゃならない。
俺はもう一度だけ二人の笑い顔を見てから典医寺の庭を駈け出した。

 

「侍医」

綺麗に染まる夕暮れの空。
ようやく診療が人心地つき、僅かの休息を取る背後からチェ・ヨン殿の低い声がする。
振り返った目に、困ったような顔のチェ・ヨン殿が映る。
「どうしました」
「いや」
言い淀んだチェ・ヨン殿は顔を上げると一つ息をつき、こちらに向かって頭を傾けた。
「お前の目前で無神経だった」
「ああ」

その惑い顔に私は首を振る。
困った方だ、ご自分の倖せのみ考えれば良いのに。
「チェ・ヨン殿」
声に問いかけるようその黒い目が当たる。
この方の目は大層饒舌だな。
声よりもむしろ目を見た方が分かりやすいほどだ。

「嬉しいのです。やせ我慢などではなく」
本心だ。淋しいけれど、悲しくはない。
君がここにいない事は淋しいけれど、また逢えるから。
「私も次に逢えた時は、必ず幸せにしてあげたいと」
「そうしろ。次は離すな」
「ええ」

また逢おう、口約束ではなく。それまで待っていて欲しい。
探しに行く。覚えていたい。君のあの愛おしい温もりを。
「お前、わざとだろう」
「何の事でしょう」
本当に意味が分からず問い返すと、チェ・ヨン殿は微かに首を振る。
「あの腕を僅かだけ動かせるように残すなど」
「・・・チェ・ヨン殿」
「何だ」
「人の身の回りを見るのが、どれ程の大仕事か御存知ですか」
「いや、俺は両親とも早く亡くした。
周りに特にそうした手を必要とする方が居らぬからな」
「あの男の為に、誰かが犠牲になるのは嫌だったのです」

口で言うほど簡単なものではない。食事、入浴、排泄、着替え。
その大変さは知らない方には想像もつかぬだろう。
あの男の為にこれ以上の犠牲など要らない。
皆が笑って生きて行ってほしいのだ。君が最後に、きっと私にそう願ってくれたように。

「亀よりのろい動きでは毒など二度と操れません。しかし動くのだから甘やかすことはない。
罪人ですから牢にぶち込んで、死なぬ程度に生かせば良いでしょう。
そんな男の身の回りを世話する方など、つけるだけ勿体ない」
「・・・なかなか言うな、侍医」
「生来こうです」
澄ました顔で呟くと、チェ・ヨン殿は楽し気に肩をゆすった。

綺麗に染まる夕暮れの空。
春の気配は既になく、その色は夏を教えている。
夕日が私たちの二つの影を、黒く庭へと伸ばして行く。

私などの影が横にいてはならんな。ここはウンス殿の場所だ。
そう思いながら久々に並ぶ二つの影を、私はじっと見続けた。

 

 

【 紅蓮・勢 ~ Fin ~ 】

 

 

 

 

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1 個のコメント

  • コメントも残さず失礼します
    因縁の徳興宮との対峙見事なストーリー引き込まれました
    何度も駄目出しされ、時に王様を恨んだ事も有りました
    何故「ヨン」の悔しさが分からずかと!
    今回のお話で王様の考えも納得出来全てにスーと気持ちが落ち着きました。素敵なお話ありがとうございました

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