紅蓮・勢 | 72

 

 

「彼女が、かわいそう」
この方は繰り返す。

「あなたに彼女の何が判るのですか。あなたはこうして生きて大護軍と共におられる。彼女は永遠に戻らない」
侍医の反論など意に介さぬご様子で闇に目を投げ、涙声でただ繰り返す。
「かわいそう」
「分からぬ者が簡単に言うな!」
叫んだ侍医にこの方はようやく目を戻した。

「簡単ですって?」
濡れたまま眇めたその目が怒りに燃えている。
「簡単に思ってるのは、あんたの方じゃないの。
彼女が死んだ、だから殺した相手に復讐するって、その死を簡単に扱ってるのはあんたの方じゃないの!
私は彼女を知ってるから言ったんじゃないわ。置いてく方の気持ちを知ってるから言ったのよ!」

闇の中に振り立てたこの方の長い髪が、梔子よりも香る。

「置いてく方は、彼女はきっと祈ったわ。最期の瞬間まで。
自分がいなくなってもあなたには元気で、ご飯を食べて、笑って生きていってほしいって。
私のことは忘れて、あなたを愛してくれるみんなと一緒に、明るくて楽しい世界で、憎しみなんて忘れて生きてって。
私はいつだってそこにいる、あなたを呼んでる。悲しまないで。泣かないで。そう思ったはずよ。
なのにその死を、あの男への復讐の動機にするなんて。彼女が一番してほしくないって願う生き方をするなんて」

この方は大粒の涙を零しながら言った。
「彼女がかわいそう。祈ったはずなのに。
命を懸けても、手を尽しても、もう二度とあなたに会えない、その絶望の中で祈り続けたはずなのに。
それまではあの男への憎しみもある。葛藤もある。
諦めようとも思うし、自分の心を見ないようにもする。嘘もつく。相手も自分もだます。
それでも誰より大切だから気付くのよ。世の中で一番簡単な真実に」

俺も侍医も無言でこの方をじっと見る。闇の中に響く声を聞く。
天啓だ。
その声は時を超え、世を超え、幾度も俺に逢いに来てくれたこの方のみが語れる真実だ。
侍医は知らぬ。
それでも真実を語る声はこの世の何よりも重く、そして真直ぐに、聞く者の胸を打つ。

「なあんだ、こんな簡単な事だったんだって。
私この人を愛してる。この人の為なら何でも出来るって。
一緒にいれば嬉しいし、離れれば悲しい。
一緒にいるためなら何でもするし、離れたらまた逢いに来る。
逢いに来るまでは、どうか元気でいて。必ずすぐまた逢える、だから悲しまないでって。
そこまで思って、あなたの未来の倖せだけ祈って、悔しくて。
死ぬことじゃない、大切な人を1人で残す自分が悔しくて、ごめん、ごめんねって謝りながら先に逝くのに。
なのにその気持ちを台無しにしてるのはあんたの方よ。
命を懸けた最後の願いを、踏みにじってるのはあんたよ!」

闇の中に手を伸ばす。
この指先はまるで呼ばれるように叫ぶこの方の小さな、震える拳へ辿り着く。
触れたいものは何処にあるのか、この指は知っている。

固い拳をこの指で開き、細い指先をそっと握る。
心のままに動いた先に、いつも必ずこの方がいる。

この方はこうしていつも呼んでいる。
私はここよ。ここにいる。忘れないで。
悲しい時は思い出して。疲れた時には頼って。
笑って。いつでも笑っててと。

だから俺は走る。闇の中を光に向かって。
その先にこの方が笑って立っているのを知っている。
一人で待たせる事など、心が痛くて出来ぬから。

その手を、その姿を永遠に失ったこの男の心の昏さ。
全てから目を逸らし復讐を誓わねば息もできぬ辛さ。
それが俺には判る。
死んでも良い、むしろ死ぬ日を指折り数えて待つ日の長さ。
早くその日が訪れぬかと夢の中でのみ逢える姿に祈るのだ。
迎えに来てくれ、連れて行ってくれと。

「侍医」

この方を喪えば、俺は今度こそ未練などない。
それでもこの方を裏切ることだけはない。
必ず生きる。生きて幾度でもあなたの許へ戻る。
先に逝くことなどない。それでも、もしも。もしも。

もしもこの方を先に喪っても、願いは命を懸けて護る。
また逢うためならば、俺は何でもする。
胸に呼び続ける。俺は此処にいる、此処へ来いと。
呼んでくれ、俺は其処へ走って行くと。

「彼女の思いが何故ウンス殿と同じなどと言える。それは思い上がりというものだ」
俺の呼び掛けには答えず、侍医はこの方へ告げた。
「ああ、そう。じゃああんたはどう思うの」
この方が静かに侍医に問いかける。

「確かに思い上がりかもしれない。じゃああんたはどう思うの?
逆の立場で、あんたが毒を飲まされてしまったら。
もう助からない。彼女にしてあげられることもない。
彼女が自分を見て取り乱してる。叫んでる。泣いてる。
行かないでってそう言ってる。その時あんたなら、どう思うの」

その問いに侍医が言葉に詰まる。
「それは」
「俺の為に復讐してくれ。一生忘れずに、倖せにならずに、誰にも心を開かずに。
不幸のどん底で憎しみだけ抱いて徳興君を追いかけて殺してくれ。その後でお前も潔く死んでくれ。
残してく彼女に最後にそう言うの?」
「それは!」
「最後にあんたなら、なんて言ってあげたいの」

 

笑って。
最後に見るのが悲しい顔なのは心配だから。
笑って。
君の笑顔だけいつまでも覚えていたいから。

笑っていてほしい。泣かないでほしい。忘れてほしい。
倖せになってほしい。悲しむのはこれで最後にしてほしい。
今ここで最後の一滴まで泣いたなら、これからは笑顔だけの人生を送ってほしい。

誰の事も恨まないでほしい。憎んだりしないでほしい。
そんな下らぬ事に、無駄な時間を使わないでほしい。
君の笑顔はこの人生で、何より貴い宝物だから。
共に居ようと離れていようと変わらない。
守るためなら、何でもしてあげたいから。

「答えは誰よりキム先生、あなたが知ってるわ」
ウンス殿の静かな声に背中を向けてお二人を其処へ残し、私は黙って歩き出す。
「明日待ってる、遅刻しないで!あ、腰お大事に!」
チェ・ヨン殿に手を握られたウンス殿の声が追いかけてくる。

遠く離れていく声に、闇の中で自分の手を握る。

懐かしい、優しい小さな手を思い出す。
私は手を離してしまった。運命の人に逢えたのに。
下らぬ風習に逆らいきれず手を離してしまった。二度と握れなくなるとも知らないままで。

次に逢えた時には、もう一度握れた時には絶対に離さない。
それまで覚えていたい。あの愛おしい温もりを。

 

 

 

 

皆さまのぽちっとが励みです。
お楽しみ頂けたときは、押して頂けたら嬉しいです。

にほんブログ村 小説ブログ 韓ドラ二次小説へ
にほんブログ村
今日もクリックありがとうございます。

にほんブログ村 小説ブログ 韓ドラ二次小説へ
にほんブログ村

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です