紅蓮・勢 | 71

 

 

闇の中からこっちに向かってくる足音に向けて
「大護軍!」
そう言って俺は駆け出した。駆けつけた先の大護軍が俺を呼んだ。
「テマナ」
「良かった。医仙が探してました、終わったって」

その声に大護軍が小さく息をする。
「そうか」
「つい今です。行ってあげた方が」
「そうする」
大きく歩き出した大護軍の横に付き
「侍医も安心したかもしれないです」
その時、大護軍の鋭い目が俺にびたりと当てられた。

「奴は何処だ」
「え」
侍医の事を訊いてるのはわかる。
「医仙の後を追って、部屋の中に」

正直に伝えると大護軍はものも言わずに駈け出した。
俺は慌ててその背を追いかけた。

 

「ウンス殿」
静かに声を掛け、診察室に入る。
薬員たちは周囲の床に落ちた血塗れの布を一纏めにし、飛び散った血を拭き、寝台の敷布を替えている。
ウンス殿のあの天界の医術道具を器に入れ、それに丁寧に熱湯をかけている者もいる。
医官たちは力尽きたような土色の顔で目の下に隈を作り、空いた寝台や椅子の上に力が抜けた様子で腰掛けている。

そしてあの憎い男は寝台の上、死んだように横臥したままだ。
死んではいない。その証拠に胸は此処から見て小さくではあるが、確かに上下している。

何故お前はそうしてまだ息をしている。
何故お前の心の臓はまだ動いている。
あれ程多くの心の臓を止め、血を流させながらのうのうと。

それでもあまりに周囲に人目が多すぎる。皆を巻き込みたくはない。
「皆も、お疲れ様でした」
その声に薬員も医員も、こちらに向かい深々と頭を下げる。
手術を断り手伝いもしなかった私を責める目など一つもない。

「キム先生こそ、御体は如何なのですか」
「・・・・・・は?」
医員から心配そうにかかった声の意味が分からずに目を瞠る。
「いくら心配を掛けまいとご配慮下さったとはいえ、同じ典医寺の一員です」
別の医員がそう言って、怒ったように口を尖らせる。
「水臭いではないですか」
一体皆、何を言っているのだろう。

「ウンス様にしかおっしゃらなかったなんて。大護軍様に誤解を招きますよ」
薬員の一人が楽し気に言って、片付けの手を止める。
「薬湯が必要ならいつもでおっしゃってください。直ぐに煎じてお持ちいたします。遠慮はなしです」
別の薬員がそう言って、深く頭を下げた。

「キム先生、ちょっといいかな」
意味の分からぬ言葉の中、何でもないような声でウンス殿が言うと立ち上がった。
そしてそこにいる皆を振り返り
「みんな、ゆっくり休んでて。あとで手術成功のお祝いに、何かいいもの、もらってくるね」

そう言ってひらひらと手を振り、先に立って部屋の扉へ進む。
最後に扉前で振り返り、その目で扉を示す。
その後をゆっくりと追いかけて、私はウンス殿に続き、部屋の外へと歩み出た。

 

「あなたの為じゃないわよ」

治療棟を出た典医寺の庭。
木の長椅子に腰を下ろし、ウンス殿は立ったままの私を見上げた。
「あのね、あなたはあの男を見捨てただけじゃない。
むしろ残って手術をした皆にとって、最悪の事をしたの。分かる?」

そう言うウンス殿に首を傾げる。
「私の世界では5、6時間の手術なんてザラだった。ああ、ええと、三刻ね。
長い時は10時間越え、下手すれば20時間なんてのもあった。五刻、十刻。もっと長い事も。
そんな手術を何回も、何十回も何百回も一緒にやり抜くの。
一瞬でも気を抜いたら患者が死ぬ、その緊張感の中でね。それがチームなの。仲間なの」
ウンス殿の真っ直ぐな目が私の目を捕らえる。

「あなたはそんな仲間を見捨てて、自分の気持ちを優先した。
逃げたの。仲間を捨てて。あ、あれよ、敵前逃亡。
ケガを治す手術っていう戦から、あなたは逃げた」
なんと言われても良い。それは事実だから、私は素直に頷いた。

「逃げる方は楽よ。だけど残された方は?あなたを信じてるみんなの気持ちは?だから私言った。
心配されたくなくて隠してるけど、今キム先生は立ったまま長い間手術できる体調じゃないって。
どうにかごまかせた・・・と思いたいわ。あ、腰が悪いことになってるから。痛いフリくらいしてよね」
そう言って首を振るウンス殿に、私は頭を下げた。
「そこまでは考えなかった。本当に申し訳ない」
「あなたの為じゃない。残されたみんなの為。でも、私には知る権利があると思う」

闇の中で私の目を真っ直ぐに見るウンス殿の目が、典医寺の窓から洩れる灯に光った。
「何で逃げたか。私があそこまで言ったのに、なん」
「イムジャ!!!」

その声の途中に大きな別の声が響く。
「ヨンア・・・?」
ウンス殿が唸り、此方を見上げていた頭をがくりと垂れる。
「此方で何を」
あっという間にウンス殿の許へ駆けてきたチェ・ヨン殿へ
「ヨンアー」

呼びながら目の前に立たれたチェ・ヨン殿の御召し物の袖を、ウンス殿がその指で引く。
「な、んですか」
チェ・ヨン殿がウンス殿の仕草に、僅かに驚いたように声を詰まらせる。

 

「おなかすいたあ。疲れたあ。眠いいぃ」
まるで箍が外れたように俺の上衣の袖を細い指で引き、揺らしながらこの方が駄々を捏ねた。
どうしたと言うんだ。まるで幼子ではないか。

「徳興君の手術は成功よ。素晴らしい剣の腕のおかげ。傷は断面見本みたいだった。
ヨンアならいい外科医になれる。でも、でもね、みんなも頑張ったの」
「よく判っております」
「じゃあ、お願い聞いて?ん?」
幼子のような丸い目で、この方が俺の眸を覗き込む。

「・・・何でしょう」
そう訊くとこの方はにこりと笑んで
「典医寺のみんなが10、えーと、五刻くらい、立ちっぱなしの飲まず食わずで頑張ったわ」
「・・・はい」
「そんなみんなが今、一番欲しいものは何でしょう?」
「・・・水。いや、飯、ですか」
「その通り!」
この方が嬉し気に小さい顔の前で両手を合わせる。

「テマナ」
「は、はい大護軍!」
「水刺房へ走れ。典医寺に何か食べ物を頂けぬかと。俺の頼みだと」
「分かりました!」
言うが早いか、テマンが闇の中へ消える。
それを目で追ったこの方はテマンの消えたのを見計らい、もう一度こちらへ笑いかける。
如何にも嘘臭い笑顔で。

「ヨンア、王様にご報告に行って。お伝えしてくれる?
徳興君の手術は成功、思ったよりきれいに縫合できたし、感染症が起こらないように10日間は様子観察って」
「後ほど参ります」
「きっと心配されてる。今行って来て差し上げて?」
「ではイムジャも共に」

俺の声にこの方が首を振る。どういう事だ。
共に行けぬ程にお疲れか。
いや。寧ろ俺を行かせ、侍医と二人になりたいように見える。

そうさせる訳にはいかぬ。毒を遣う男だ。

この方から少し離れ、其処へ立つ侍医へと向き直る。
此処で話すつもりはなかった。しかしもう選択肢はない。
「侍医」
「はい、大護軍」
「許嫁の一件、聞いた」

侍医の目が、驚いたように開かれるのを確かめる。
「真実なのだな」
「・・・大護軍」
「徳興君の毒で命を落とされたのだな」
「それは」
「だからお前は毒を学んだ」

証拠を残さず痕跡を知られず、徳興君を殺めるために。
お前は言った。俺ほどの腕と度胸があれば剣を学んだと。

侍医はもう何も答えず、此方からふいと顔を背けた。
「今、徳興君を殺めさせる訳にはいかん」
「・・・・・・」
「あの男はお前の許嫁にだけでなく、他の者にも毒を験していたようだ」
「・・・・・・それでも罰せぬのですか」
低い声で侍医が吐き捨てた。

「人を人とも思う事なく、壊れた玩具のよう扱い毒を盛り、殺し投げ捨てる。
そんな事を繰り返す者でも王族ならば、利用価値があれば許されるのですか。守られるのですか!」
「侍医」
「殺された者が憐れです。逝った者を忘れ、そんな悍ましい男を救う気など、私には毛頭ない」
「侍医」
「たとえこの後罪人として裁かれようと構わない。彼女のいないこの世に、未練など全くありません。
命のある限り、私はあの男を殺す機会を待つ。手を失ったあの男を殺すなど、た易い事です。
私の途を塞げばチェ・ヨン殿、貴方でもウンス殿でも許しません」
「侍医!」
「私にも武器はあります。そして決して御二人に使いたくはない。
後生ですから邪魔だけはなさらないで下さい」

ようやく此方に烈しい目を戻した侍医が首を振る。
無言で闇の中睨みあう俺たちは、続いて同時に振り向いた。
静かに継いだこの方の息に。

「・・・・・・かわいそう」

長椅子に腰掛けたこの方が静かに泣いている。
堪えようとする泣き声が喉で痞え、しゃくり声に変わった。

 

 

 

 

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