紅蓮・勢 | 58

 

 

回廊を早足で抜けて、ようやくこの間見た扉の前に立つ。
そうだ、ここだったわ。私は迷わずその扉を押し開いて駆け込む。
迷ったら部屋に入れなくなるかも。そう思ったから。
横のテマンが、すぐ後に続く。

「医仙様」
ベッドの上に体を起こしていたイ・ソンゲが、驚いたみたいに目を丸くして呼んだ。
「大護軍とは、すれ違いでしたか」
「え?」
その声に私が首を傾げると
「つい先ほどまで此処にいらしたのですが。大護軍をお探しではないのですか」

あの人が、来てた。その言葉に心臓が跳ねる。
今じゃない。今じゃない。まだまだ先の筈よ。
そうよ、そしてそれを絶対起こさないために、私は今イ・ソンゲに恩を売りに来たんだもの。

「前回も、今回もお助け頂き、医仙様には本当になんとお礼を お伝えすれば良いか。
ありがとうございました」
この心中を知らないイ・ソンゲが、そう言って頭を下げる。
そうよ、絶対に忘れないでちょうだい。私に、そしてあの人に大きな借りがある事。

私は鷹揚に見えるように頷いて、イ・ソンゲのベッド脇の椅子にゆっくり腰掛けた。
あの李氏朝鮮の太祖、李 成桂だとは敢えて考えない。
ただの患者。
それもこの先困ったことをする、まあ未来のモンスター・ペイシェントと言って言えない事もないのよ。
きっとそうよね。
どうする?
私が江南のモンスター・ペイシェントに無理矢理捻じ込まれて、説得するとき!何をした?

説得、認識、同意。
相手の言い分が常識外だと説得する。
私が最善と尽くしたと認識させる。
そして医療過誤ではないと同意させる。

私は大きく息を吸って、ベッドの上のイ・ソンゲをじいっと見つめてみる。
その目を見てイ・ソンゲがきょとんとした顔で、失礼にならないように私を見返してる。

「イ・ソンゲさん」
いつもより意識して落とした声に、イ・ソンゲが頷いた。
「はい、医仙様」
「私、前回も今回も、治療には全力を尽くしました」
「よく判っております、医仙様」
「どこか、不満なところはありましたか?」
「とんでもない事です!」
イ・ソンゲが、ベッドの上で慌てて頭を振る

「今回の治療も、他の医師ではできなかった手術だと、自負しています」
「勿論です。傷の治りも早く、新しい医師も驚いております」
「今、何か気になるところはありますか?」
「いいえ、全くございません。傷が塞がれば、動かす訓練を出来るようになります」

その声にゆっくりと頷いて、真正面からイ・ソンゲを見つめる。
治療に手落ちはないことを認めさせて、他の医師じゃ無理だとよく判ってもらわなきゃ困るのよ。
「では、お願いがあります」
「勿論です、どうぞ何でもおっしゃってください。
前回のこともございます。私でお返し出来る事なら、喜んで何でも致します」
「ほんとに?」
「はい」

そう、イ・ソンゲさん。
あなたにしかできない事なの。その言葉、信じるわよ。何でもしてもらうわ。
「一筆、書いて下さいます?」
「・・・は?」
あまりに唐突な私の要求に、イ・ソンゲが頭のてっぺんから抜けるような声を返した。
私は慌てて首を振りながら言い足した。

「今はいいんです。でもこれから困った時、えーと、ほら。
元とも太いつながりのあるイ・ソンゲさんのお力を借りたいな、と思う事があるかもしれないので。
だからユ・ウンスの頼みを必ず聞くって、それがイ・ソンゲさんの意思だって誰でも分かるような。
なにか、そういう念書を」

嘘っぽいわ、我ながら。もうちょっとうまい言い方もあるのかもしれないけど。
でもそんなの、考えてる場合じゃないのよ。突然あの人が、明日帰るなんて言い出すんだもの。
でも幸いな事に、目の前のイ・ソンゲはにっこり笑って
「勿論でございます。医仙様のお役に立てるならば」

そう言って部屋の隅に控えている、あの時も見かけた従者らしき男の人に
「紙と筆を持て」
そう声を掛けた。
従者らしきその人は頷いて、すぐに部屋の机の上から筆箱と大仰な巻紙を持ってきた。

イ・ソンゲさんはベッドの上でそれを受け取ると、慣れた様子でぱらりと巻紙を広げた。
そして筆箱の蓋を机代わりに、巻紙に何やら書き付けて行く。
最後に従者の男性に向かって
「ウヨル。これを乾かしている間に私の落款を持って来い」
そう言うとその男性は
「はい」
とだけ言って頭を下げて、すぐに部屋を出て行った。

あまりに呆気なく進んだこの作戦に、深い溜息が出る。
溜息をついて初めて、どれだけ息を詰めてたかを知る。
緊張するなって言っても無理よ。何しろ相手は教科書で散々勉強してきたイ・ソンゲだもの。
「それにしても、医仙様は不思議な方ですね」

イ・ソンゲが楽し気に、ベッドからこっちを見てそう言った。
「え?」
「私のような若輩を頼らずとも、医仙様にはあの大護軍がついていらっしゃるのに。
私などに何が出来ましょう」
「ああ・・・えーっ、と、あの人には出来ない事もあるかな、って」
「頼って頂ければ嬉しいです。書状にも記しましたが。
どのようなお望みでも、私に出来る限り必ず叶えさせて頂きます。
何か欲しいものがおありなのですか。衣装や宝玉や金銀や、調度品や、さもなくばお住まいや」
「ああ、全然そういうものではないんです」
考えもしなかったわ。ひそかに吹き出しそうになりながら私はぶんぶん首を振った。

あの人を、絶対に殺さないで。
あの人を、絶対に傷つけないで。

今、私たちがこうして笑顔で約束したことを、絶対に忘れないでちょうだい。
どうか思い出して。
ああ、あの時双城総管府の医務室で医仙と約束したなってどうか思い出して。

祈りだわ。
これは、祈り。

この先、ずっとずっと先のイ・ソンゲへの祈り。
私のあの人は言った。高麗の武者にとって、約束は命より重い。
だからイ・ソンゲさん。あなたもそうであることを、心から今、私は祈るわ。

先の世界につながる李氏朝鮮を興した太祖は、取るに足らない約束でもしっかり履行してくれた。
そんな立派な人だってことを、心から祈るわ。
「ソンゲ様、取って参りました」
そう言って部屋に入って来た従者から落款を受け取って、巻紙の最後に力を込めて押す。
そのイ・ソンゲの手元を、私はじっと見つめた。

 

医仙は、一体何を言ってるんだろう。
この若い男の言うとおりだ。
大護軍がいるんだから、大護軍に頼ればいいじゃないか。
この男に出来て、大護軍に出来ない事なんかあるもんか。
そう思いながら、男の横にじっとしてる医仙の横顔を見る。

この男にしかできない事。だけど医仙は、王様とも王妃様とも親しいだろ。
もし大護軍に出来ない事があったって、王様に頼めるはずだ。
元に一体、何を頼むって言うんだ。
第一高麗も、そしてこの男だって、元と縁を切ったから今こうして双城総管府を攻めているはずだ。

何がしたいんだろう。医仙は、何を考えてるんだ。

俺の視線に気づいたのか、医仙がふと緊張した顔をこっちに振り向けた。
問いかけるこの目に、医仙の困ったみたいな目がぴたりと当たる。

何が言いたいんだろう、医仙はその目で。

一つだけわかるのはこんな滅茶苦茶な言い分も、絶対に大護軍のためだってことだ。
俺は医仙を信じる。大護軍が信じる人だから。
そして、俺の姉さんみたいになった人だから。

俺が頷くとようやく安心したみたいに、医仙の噛みしめてた唇が、ふわっと開いた。
真白だった唇に、ようやく血の色が戻る。
それでも、大護軍には言わなきゃいけない。
それだけは許してほしいと、俺は肚の中で、医仙に頭を下げた。

 

 

 

 

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3 件のコメント

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    ウンスと同じくらい唇かみしめてましたよ私。
    どうするの?
    いったいウンスは何を内緒で?
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・?
    えっ?
    ・・・・・・・・・・・・・は?
    あぁ~恩をわすれるんじゃないわよ!って
    口約束じゃなんだから覚書ね?
    ごめん!さらんちゃん!!
    私吹いたわ今。
    いや、絶対ウンスは必死も必死。
    大真面目!なんだとは思う。
    武士に二言はないとはいえ
    今回自分の思い通りにならなきゃ
    味方の兵士見捨てる人だからなぁ・・
    ヨンには絶対なれないけれど
    君主には慣れる人なんだよねぁ・・
    もしかして、さらんちゃんも
    キーボード打ちながら笑ってる?
    アハ・・・・まさかねぇ?(笑)

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    ウンスのこの行動で、歴史が変わると良いですね^^
    本当は具体的に言いたいだろうけど、将来対立するなんて事、今言えないですよね。
    将来的にも大護軍の力になって欲しいと言っても、今は了解するだろうし、口約束じゃね。
    この約束の書状、生かす為にはウンスも長生きしなきゃ!
    さて、ヨンがテマンから聞いたら、どんな反応を示すかな。
    続き楽しみにしています♪

  • SECRET: 0
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    武士の約束を書面で残す。ヨンはどう思うか複雑だけど、女として、妻として、ウンスは上手い事考えたと褒めてあげたい!
    今のウンスの出来る、最上級の事と思うから。

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