紅蓮・勢 | 42

 

 

その時近付いてくる乱れた足音に、篝火の外の闇を見る。
遅れて目の前のイ・ジャチュンや従者が振り返る。
「イ千戸長様!」
走り寄る四、五人の胡服の男が、息を切らせて呼ぶ。
「何だ」
「チョ総管と卓都卿が、西門より逃げました」
「兵はどうしたのだ」
「百名ほど連れて行きましたが、残りはまだ城内に」
「相分かった」
そのまま俺に振り返り、イ・ジャチュンが頷いた。

「これで終いです、大護軍殿。チョ総管は自らこの双城総管府を捨てました。
恐らく元へ逃げ帰りましょう」
思うた通りか。俺が今まで落とした城の中、最も容易い戦だった。
元の要塞の中でも最高峰、双城総管府を預かる以上いくら素人とはいえもう少し気概のある男かと思ったが。
「チュンソク、トクマニ」
「は!」
「はい!!」
「チュンソクは南。トクマニは北。各々隊を連れ壁に添って建物を廻れ。残兵に降伏を呼び掛けろ。
俺は軍医殿と共に東の正館から牢車を曳いてくる」
「は!」
「判りました!」

頷いてそれぞれの隊の兵を連れ駆けだす二人を見遣った後に、肩越しに背後のこの方へ声を掛ける。
「軍医殿、共においで下さい」
「うん、分かった」
頷いたこの方の騎乗を確かめた後アン・ジェの残した馬に乗り、そこに立つ周囲の兵へ声を張る。
「縛った兵が戻れば、そのまま並ばせろ。総管府の兵に関しては敵味方は俺達では判じられぬ。
斬って来た者のみ迎え討て」
「は!」
「はい!!」
返る声を確認した後、横の鞍上に収まったこの方の目を見る。
「行けますか」
「うん」
頷く声を聞き、愛馬の腹を軽く蹴る。
篝火の光を後に闇の中へ、俺達の馬は駆け出した。

「テマナ」
「大護軍!」
馬を全速にする間もなくすぐに東の正館が見える。
その正面の門前に送ったテマンと鷹揚隊の兵、そして残していた先発隊、合流した元の兵が立つ。
ウヨルは先頭のテマンの横に立っている。
手綱を絞り馬を止め、鞍から飛び下りた。
続いて横のこの方の下りるのを確かめる。

篝火に照らされ足許の地に斃れる敵兵の骸。
頭数は俺達が館内に駆け込んだ夕のあの時と変わらない。
ではあの後、敵兵の襲撃はなかった。

夕と違う景色はただ一つ。目前の牢車だけだった。
それは黒い布で頭からすっぽり覆われている。
こうして見ると、ただでかく黒い箱のようだ。
「中にいるか」
「確かめました。います」
テマンが返しウヨルが頷く。
その布の端を持ち思い切り引いてやる。

東の正館の篝火は、正門の大篝火に慣れた眸には頼りない。
それでも薄赤い光の中で轡を噛み、後手に手鎖足鎖で拘束した姿で、あの男は其処にいた。
突然黒布を払われた眩しさに目を眇め、牢車の檻越し此方を見た目が驚愕に瞠られる。

俺にではない。俺の横のこの方の姿に。

「お前が不治の毒を盛った方だ。よく見ろ」
奴を閉じ込めた牢車、檻越しに顔を近づけ低く告げる。
「お前の浅知恵など所詮そんなものだ。この方には勝てぬ。
判ったら二度と分不相応な夢は見るな。
王位も、そしてこの方を手に入れる事も」

最後にその檻をこの足で思い切り蹴り飛ばす。
その重い大きな音が、周囲の夜気を震わせる。
この方が驚いたよう、びくりと肩を聳やかす。
「・・・済みません」
驚かせたこの方に向け、ようやくそう詫びる。

今でも殺してやりたい。生半可なやり方でなく。
奇轍のような凍死など、お前には絶対に赦さん。
この方に毒を盛った指の関節を潰し、一本ずつ切り落とし、一寸刻みに斬り刻み。
身肉を僅かずつ削ぎ落とし、最後に下らぬ姦計しか詰まっておらぬ頭を首ごと落とし。
じわりじわりと迫る死の恐怖を味わわせてやりたい。
この方がその毒で味わったあの恐怖の万分の一でも。

今それをせぬのは王命ゆえだ。身柄を取り戻せたからだ。
この男の命は既に王様の御手中。生かすも殺すもその御英断次第。
有利に使えるうちは生かしておくのもやぶさかでない。
使えなくなれば捻り潰せば良い。

その時こそ俺は王様に懇願するだろう。どうか褒美をと。
他には何も要らぬ、この男の息の根を止め、心の蔵が止まるのをこの手でこの眸で確かめさせてくれと。
その時こそ肚の底から、この方に伝えられる。
安心して開京にいろと。俺は必ず生きて戻ると。

人が人を、これ程に憎むことが出来る。
また一つ覚える。
あの忠恵王の時、メヒを蹂躙し隊長を刺し殺したあの男を、俺は本心から殺したいと憎んだはずだ。
それを成すことも出来ず二人を喪い、それでも隊長との最後の約束を果たすため迂達赤の役に就いた。
信義も忠心もないままに、ただ日々をやり過ごすために。
今ほど憎んだなら、あの時迷いなく忠恵王を殺していた。
どうにかして、どんな手でも使って殺していたはずだ。

けれど俺はそうしなかった。生きる事など考えず、ただ死ぬ日を指折り待った。
死ぬから何も怖くなかった。無茶な戦法も取った。それで味方を幾人も喪った。

あの頃の俺が今目の前で同じ事をしろと言ったなら、頭を張飛ばし胸倉を掴んで怒鳴りつけるだろう。
馬鹿か、気でも違ったか、兵を殺してどうする。
死んでどうしてこの方を護れる。お前が生きずに誰が護ると。

正館の篝火の中、闇に紛れて後手に握るこの細い指。
思わぬ形での鼠との最悪の邂逅に、震える息を吐く。
この方は俺にとり最大の強みであり、唯一の弱点だ。
側にいる限り必ず勝つ。取られれば無条件で負ける。
「布を掛け直せ」
「は、はい」
「前半分は中が見えるよう開けておけ。絶対に逃がすな」
「はい」
テマンの声を後に、この方を牢車から引き離す。
これ以上見る事などない。殺す前に隠してくれ。

「チョ総監ともう一人は、西から逃げたそうだ」
ウヨルを振り返り伝えた声に
「戦う事なく・・・情けない」
ウヨルが息を吐き、静かに頷き返した。
「南北の建物の衛兵には、今部下が降伏を呼び掛けている。俺達は牢車を曳き東門へ向かう」
「畏まりました」
「ソンゲは兵舎へ向かった。眠っている兵を捕縛しに」
「私もそちらへ回ります」
「判った。東門前にて集合だ」
「畏まりました」

最後に頭を下げ、ウヨルは徒歩で闇の中へと消えて行く。
「大護軍」
テマンが俺を見上げて呼ぶ。
「おう」
「こんな風に、味方を捨ててく奴もいるんですね」
その声に顎で頷いた
「・・・そうだな」

立て直すために引くなら良い。それは作戦だ。
敵に姿さえ見せず逃げるなら、それは臆病だ。
ましてや自分の兵を置き去りに敵前逃亡など。
捨て置かれた兵の事など我関せずか。
そんな将に仕えさせられた兵こそいい迷惑だ。

「ヨンア」
抑えた呼び声に我に返る。眸を上げればこの方の心配そうな瞳とぶつかる。
「大丈夫?」
小さな手が俺の指先を握り直す。
「はい」
その手が頬に触れ、瞳がこの目を覗き込み、細い指先が頸に、そして手首に伸びてくる。
「・・・うん、大丈夫」
その声に首を振る。案ずるべきは俺でなくこの方だ。
イ・ソンゲを見、徳興君を見、どれほど心が揺れているか。
駄目だ。まだまだだ。
何か起きる度にこの方の心を後回しにするようでは、護るなどと偉そうなことは言えぬ。

それでも徳興君を見せたかった。
こうして捕らえたから安心して良いと。
もう金輪際あなたに手出しは出来ぬと。
そして自分自身をも得心させたかった。
これで悪夢に魘されず、ほんの僅か安心できると。
この方にも王様も王妃媽媽にも安心して頂けると。

手首を離れようとした細い指を思わずこの手が追いかける。
「もう大丈夫です」
勢いで捕まえた指先を痛めぬようゆっくり握り呟く。
篝火の中、大きく開かれた瞳が見つめ返す。
「大丈夫です」
それだけを繰り返すとこの方は、静かに頷きゆっくり笑んだ。
「うん、大丈夫」

この方のよう、脈に触れただけで心の痛みまで分かるなら。
そしてその気鬱を取り除く薬を、俺が処方してやれるなら。
闇雲に護ると叫ぶだけでなく、何かをしたいのに。
兵の前では細い肩を抱くことも出来ず、いつもより少し冷たい体を懐で温める事も出来ん。

その心を護れずして、何のために此処にいる。
温めてすらやれずして、何のために傍にいる。
あなたは今、何が欲しいのだろう。
俺はどうすればあなたが俺に下さるくらい、あなたにそれを返すことが出来るのだろう。

 

 

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