整理を始めて三日目の夕刻。
割り振られた迎賓館、臨時の執務室の窓外の騒がしい声に眸を上げる。
夕暮れの外の紅い空気の中。
開京に遣いに出した兵、それを囲む迂達赤の影、双方此方へ向かってくるのを認め椅子を立つ。
戻ったか。
その気配に室内で医務室から持ち出した分厚い書を捲る細い指先を宙で止め、この方が俺を見た。
「どうしたの?」
問いかけの声に顎で窓を指す。
「遣いが戻ったようです」
視線を窓へと動かしこの方が頷いた。
「じゃあ、もう帰るの?」
「王様の御返事次第ですが」
「そう・・・」
「どうしました」
開京に戻るとなればもっと嬉し気にすると思ったが。
予想ほど浮かれた様子のない表情に肚裡で首を捻る。
「ううん。思ったより早かったなあって」
「長逗留したかったのですか」
そう訊くとこの方は首を振る。
「そういうわけじゃないの。ただ、何もかもバタバタして慌ただしかったから、驚いただけ」
その声に被るように扉の外から
「大護軍、遣いが戻りました」
響くチュンソクの声に答える。
「入れ」
扉の開く音と共に数名の兵が室内へと入ってくる。
遣いの兵、そしてチュンソク、トクマン、テマンらが入り乱れ、室内が一気に人の気配で溢れる。
「只今戻りました」
「王様にはお変わりないか」
「ご健勝であられます」
「何より」
「王様よりお預かりした、大護軍宛の文です」
遣いの懐から取り出された文を広げ、王様の御手蹟であるのを確認する。
眸で追えば徳興君捕縛についてのお褒め、続く至急帰京せよとのご命令。
そして国交断絶後も元よりは何の動きもないとの御言葉が並ぶ。
二度眸を通し畳んで懐へと放り込み、チュンソクらに視線だけを投げる。
「ご苦労だった。ゆっくり休め」
「はい」
馬を走らせた遣いの迂達赤が頷いて部屋を出る。
「チュンソク」
「は」
「明朝帰京。兵に伝えろ」
「は!」
「トクマニ」
「はい!」
「鷹揚隊からアン・ジェを呼んで来い」
「はい!」
「テマナ」
「はい大護軍!」
「この方を護れ」
「はい!」
それぞれが散っていく部屋から急ぎ足で飛び出る。
まず総管府の兵らを繋いだ半地下の牢へ踏み込む。
独特の湿った空気の中、初夏の夕暮れの赤い陽が、天窓から牢の中へと輝くように射していた。
「大護軍殿」
獄の見張りに立つ鷹揚隊の隊員らが敬礼する中、檻の入口に立っていたのは総管府側の兵長だった。
「如何だ」
小声でそう確かめるとその男は首を振った。
「これ以上は、もう刻の浪費と思われます」
その最後通告に俺は頷いた。
「明朝帰京する。此処にいる兵らはまずは開京で詮議にかけることになる」
その声に兵長は黙って頷き、牢の中の元戦友に何とも言えぬ視線を投げかけた。
憤りか、悲しみか、憐れみか、諦めか。
それでも牢の中の兵の数は、最初に縄をかけた時の半分ほどに減っていた。
「ここまでになったのは総管府側の尽力だ。感謝する」
「もったいない御言葉です。時間を下さった事、忘れません」
「礼を言われる筋ではない」
それだけ伝え踵を返して地下牢を出る。
あの牢の中、残った兵たちにも信じる道がある。
此度の戦は返す返すも頭が痛む。
考える事ばかりだ。
次の部屋へと暮れ空を見上げつつ、急ぎ足で歩を進める。
俺には向かん。
考える事も、立ち止まる事も、起こるかすら判らぬ先を予想する事も。
扉を明けると寝台のイ・ソンゲが起き上がり、部屋に入る俺に嬉しげに笑いかけた。
「大護軍」
「起きて良いのか」
寝台脇へ寄るとソンゲは頷き
「ご心配をおかけしました。もう大丈夫です。また大護軍と医仙様に救って頂きました」
そう言って笑う。
これ程素直に笑える奴が、何故己の兵には心を開けぬ。
性根を見せぬばならんのはそいつらに対してだろうに。
「懐かしいです」
ソンゲが寝台の脇の俺に向かい、しみじみと言った。
「・・・そうだな」
そう答えてあの時のよう、奴の寝台の端に腰掛ける。きっと同じ事を思っているのだろう。
「幾つだった」
「五年前ですから、十六です」
「そんなものか」
「はい」
「幼いはずだ」
「大護軍は、全く変わられないのに」
「そうでもない」
「・・・戻りたいものです」
ソンゲが呟き、大層懐かし気に窓の外の夕焼けを見た。
疲れたような、達観したかのようなその目。廿やそこらの若造の目ではない。
十六。俺が父上を喪い赤月隊に入ったのと同じ歳だ。
そして今は廿過ぎ、俺が隊長や皆を喪った歳。
あの頃の俺もこんな目をしていただろうか。
もう思い出せん。だからこそこいつに言ってやりたい。
今がどれ程辛かろうと、味方と信じた奴に斬られようと、己の犯した過ちを認めればお前にも現れる。
お前を信じ決して裏切らぬ仲間、お前のために泣き笑う女人、そんな人間にお前もきっと出逢える。
お前が信じ心を傾ければ、たとえ遠廻りをしたとしても。
それがこいつに伝わればと願うだけだ。
「大護軍」
「おう」
「私は、大護軍のようになりたいのです」
「・・・そうか」
「大護軍のように手柄を立て、名を上げ、皆に尊敬され、高い役職を得て、家名を取り戻さねばなりません」
「ソンゲ」
俺のように。お前にとっての俺はそんな男か。
お前の見る目は其処までか。
腰を上げた俺を寝台から不思議そうに見上げる目を、真直ぐに見返した。
こいつにとっての俺は単なる高麗の英雄というわけか。
そう見る奴はそれで良い。
決して見せぬ痛みも苦しみも、一人拳を握り締める夜も、見抜けぬならそれで構わない。
「明朝、俺達は出立する。お前は療養が終わってより開京に戻るが良い。
その後此度の事について、王様よりお褒めの御言葉があろう」
「判りました」
ソンゲはそう言って嬉しそうに笑った。
褒め言葉だけで喜べるならばそれで良い。
栄華を目指して進むなら、それもお前の生き方だ。
「暫し会えん。無事でな」
「大護軍も。この次は開京にて、必ずや」
「おう」
頷いて部屋を横切り、扉を抜けて回廊へ出る。
剣を握りただ戦う。護るべきものを護るために。
その簡単な事を、何故ややこしく大仰に祀り上げる。
褒め言葉も名誉も、役職も家名もいらぬ。
ただ父上の息子として、隊長の弟子として。
王様の守りとして、そして先に逝った奴らに。
それら全てに恥じずに戦えるよう、それだけを願う。
そしてあの方を護れればそれだけで充分だ。
あの若い男にそれが判らぬならそれで良い。
こうして少しずつ道を違えて行く。
あの若い男が憧れるのは俺という男ではない。
いつの間にか背負わされた名誉や褒め言葉や、分不相応な役職や、纏わる噂だったという事だ。
己に成し得ぬ事を成し得たように見えるその幻が、心に歪みや恨を芽生えさせるのかもしれぬ。
そしていつの日かあの方がおっしゃることが、本当に起きるのかもしれぬ。
今のあ奴にその気配は微塵もなくとも、積もっていけばどうなるかは誰にも判らぬ。
俺には向かん。考える事も、立ち止まる事も、起こるかどうかすら判らぬ先を予想する事も。
起きる時には起きる。起きぬ時には起きん。何方にしろ逆らう気はない。
俺は死ねぬ。あの方が生きる限り。
奴が俺に刃を向けた時、あの方が横にいて下さるならば俺は必ず生きて帰る。
イ・ソンゲ。若いお前を斬り捨ててでも。

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