2014-15 リクエスト | 曠日・7

 

 

「ヒド殿でいらっしゃいますか」

日暮れ。
茜色の空を背景に戸口に立った人影は、疲れの滲む声音で小さく静かに問うた。
その女の声に、俺は黙って目を遣った。

手裏房を離れ、すでに五つ月六月。
北の涯、鴨緑江での情報集めの依頼は絶え間なく続いていた。
一触即発の元との国境、この辺りの情報を欲しがる人間はどうやら山ほどいると見える。

マンボはさぞやほくほく顔であろう。
そう思いつつただひたすらに、西へ東へと駆け続けた。
そんなある日の夕刻、宅にいた俺は覚えの無い外の気配に部屋の内で動きを止め、僅かに扉へ目を流す。

誰だ。

その瞬間、扉が遠慮がちに叩かれる。無視しておくか。開ける義理などない。
面倒を避けるために仮住まいの庵さえ転々と移る己が、ここで見知らぬ者と袖振れあう必要もなかろう。

「ヒド殿」
扉の外からそう聞こえたのは、聞き慣れぬ女の声だった。
此処に俺が居ると知っているという事は手裏房からの遣いか。
鳩の報せもなかったものを。それに驚き、腰を上げ戸を開いた。

そこには女が一人立っていた。
恐らく女が乗ってきたのだろう。少し離れた処に馬が一頭、杭に結わえられ草を食んでいる。
女の影も馬の影も、茜の色の空の下、長く細く伸びている。

「ヒド殿でいらっしゃいますか」
「まずは馬に水をやれ」
「え」
出し抜けのその声に、女が目を瞠る。

「どこから走ってきたかは知らぬが、馬にまず水をやれ」
そう繰り返すと女は素直に頷いて馬へと駆け戻り、杭に繋いでいた手綱を解き、馬を牽いた。
「井戸をお借りしても良いですか」
そう尋ねる女に頷くと、踵を返し庵へと戻る。

「ありがとうございました」
しばらくして庵の室内に座る俺に向かい、扉から顔を覗かせた女が頭を下げた。
「お前は誰だ」
「ハリムと申します。皇宮の武閣氏をしております」
「何故武閣氏が来る」

手裏房だとばかり思っていた目前の女が、武閣氏と名乗るとは。
俺の知る限り武閣氏と言われての心当たりは、顔を合わせた事すらないヨンアの叔母上くらいのものだ。
「ヨンに何かあったのか」
開京から遠く離れた俺の元へ武閣氏がわざわざ訪ねるなど、それしか考えられぬ。
俺のその咎めるような鋭い語気に、目の前の女は唇を震わせた。
俺を恐れてではない、その目は恐れてなどおらぬまま、こちらにひたと当たっている。
そしてそのまま女は懐から薄紙を取り出した。

「チェ尚宮様よりヒド殿への書状をお預かりしております」
何故面識もないチェ尚宮殿が書状など。
渡された薄紙を受け取り急いで開く。
墨痕鮮やかな文字を目で追い、息を止める。

マンボに俺のことを聞いた、居場所を調べた、ヨンアが瀕死の重傷を負った。
簡潔に書かれたその書状を掌の中で、ぐしゃりと音を立て握り潰した。
「入れ」
俺がそう言うと女は戸口で一礼し、静かに室内へ入る。
夕暮れの薄明るい庵の室内でこちらに向かい改めて一礼すると、音を立てず床に端坐した。

「今も危ないのか」
そう問うと女は首を振って俺を真直ぐに見、静かに口を開いた。
「お命は取り留め、回復に向かわれています」
「何があった」
「徳成府院君奇轍の氷功に撃たれました」

徳成府院君奇轍。氷功。
初めて聞くその名に、俺は息をつく。

「それは誰だ」
「医仙様を手に入れようと、つけ狙っていた男です」
「医仙とは」
「王妃媽媽のお怪我の際、天より大護軍がお連れした医官様です」

天女とも呼ばれていたあの女の事か。
マンボも言っていた。天の医術を使い、欲しがるものが大勢居ると。
その中の一人がその氷功遣いだったというわけか。
「で」
俺はそう言い、目の前の女へ話の先を促す。

「医仙様をお連れした天の門が、再び開いたようです。
大護軍は医仙様を連れ、そこへ向かわれたとの由。
その寸前で徳成府院君奇轍に、行く手を阻まれたと」
「で」
「大護軍は天門の手前の草原にて氷功に撃たれ倒れていらっしゃるところを、捜索の軍勢に発見されました。
また奇轍は、天門の入口前にて事切れた姿で」
「天の女は」
武閣氏は首を振った。
「医仙様の行方は分かりませぬ。どこをお探ししても見つからず。
恐らく天の門をお一人でくぐり、天界へ帰られたと皆そう推測しております。誰も見たものがおらぬ故」

黙って頷き、俺はその場から立ち上がった。
「あ奴は今何処に居る」
「すでに王様がお迎えを出され、開京へとお戻りです」
「無事なのは確かか」
「はい。私もヒド殿にこうしてお会いする前、一度だけ大護軍に直接御目通りが叶いました。
病床に伏してはいらっしゃいますが、確かに回復に向かっていらっしゃいました」

女の言葉に眩暈を覚え、安堵の息を太く吐く。
「そうか」
「私はこのまま戻ります。大護軍に何かご伝言は御座いますか」
伝言、伝言だと。今、何が言ってやれるというのだ。
あ奴が再び笑えるようになった、その理由であろう女を再び喪った今。

「ない」
そう言って首を振る。
「畏まりました」
武閣氏はそう言って、ゆっくり頭と垂れた。
「最後に、大護軍よりヒド殿に御ことづけがございます」
「あ奴の伝言とな」
武閣氏は、俺を見て頷いた。

「此処で、生きて待つと。決して死なぬと」

その声に重なり、あ奴の声が聞こえる。
俺は生きる、此処で待つ。決して死なぬ。

あの天の女に向けて言うたのであろう。
それでも俺にとり、それは天啓に等しい響きだった。
その命の尽きる最期の日を夢想していたはずのあ奴が。
指折りその日だけを数えていたはずの、あの若い弟が。

「そう、言うたか」
俺は目前の武閣氏から目を外し問うた。
決して死なぬと、生きると、そう言うたか。
「一言違わず、はっきりおっしゃいました。この耳で聞きました」
そう穏やかに頷く武閣氏に向け
「名は」
改めてそう問うた。彼女は微笑んで返した。

「ハリムと申します、ヒド殿」
「ハリム」
そう繰り返し、俺は彼女に頭を下げた。
「来てくれて、礼を言う。チェ尚宮殿にも礼を伝えてほしい」

女は頷き腰を上げ俺と向かい合った。
「必ずや、お伝え致します」
「ヨンアを頼む」

最後にそう伝えると、それに頷いたハリムは
「王様が典医寺に専属の御医を置いておられます。
大護軍は殺しても死なぬと周囲は皆信じています。
必ずやお元気になられます。ヒド殿、お信じ下さい」
ハリムはそう言い、深く頭を下げた。
「もう参ります。お邪魔を致しました」

戸を開けると茜色だった空はすっかり色を失い、庵の周囲には宵の帳が下りている。
空の上、黄色い月がくっきりと浮かんでいた。
「闇の中を戻れるのか」
「月がございます」
「女一人でか」
「馬を飛ばします」
そう言って、ハリムは微笑んだ。
「これでも武閣氏の一員です」
「たとえ武閣氏であろうと、馬が崖から堕ちれば死ぬぞ」

俺の言葉にハリムはおかしそうにふふ、と笑った。
「ヒド殿にチェ尚宮様へのご伝言も、大護軍の御体も頼まれました故、死にませぬ」
「そうか」
一礼し身軽に鞍へ跨るハリムを、俺は下から見遣った。
「それでは」
鞍上からのその声に頷く。
「ああ」

ハリムは、馬の脇腹を蹴った。
馬は駆け出し、その姿は月の下、瞬く間に宵闇に溶け見えなくなった。

それを見届け、俺は庵へと踵を返した。

 

 

 

 

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