「ウンス殿」
「なあに?」
キム先生に呼ばれて、裁断機から顔を上げた。
生薬を切りそろえる。地味だけど大事な仕事。
大きさが揃わなきゃ、加工がうまくいかない。
炒、炙、焙、煨、煆、炮、烘烤。
漂、泡、潤、蒸、茹、淬、水飛。
加工がうまくいかなきゃエキスを抽出できない。
今まで学んだ知識をの全てを懸けて、念入りに、丁寧に。どんな小さな事にも手を抜かず、自分のベストで。
気が狂いそうなくらい地味な仕事でも、面倒な作業でもそこで手をかければ、よりよい結果が出ると信じて。
ずっとずっと考えている。
そして考えるたび、心臓が凍りそうになる。
考えたくはない、でも考えなきゃいけない。
国史の教科書でどう学んだ? 恭愍王と魯国大長公主。
そう、魯国大長公主は難産で亡くなる。あまりにも有名な悲恋。
そして恭愍王は悲しみに暮れるあまり辛旽に政治を任せて、その政策に反感を募らせた崔萬生に暗殺される。
媽媽が亡くなるのは、いつだった?
思い出せない。もしもそれが今回だったら。
でも辛旽はいない。少なくとも今は。
そして崔萬生も。少なくとも今は。
そんな名前の人たちに覚えはない。少なくとも私の周りで。
あの人に話す?話してどうなるの?余計な心配かけるだけ。
王様も媽媽もあなたも、みんな幸せになってほしいの。
そうなれるなら、私はどんなに歴史を変えたっていい。
この先の未来の全てと引き替えにしても。
たとえそれが理由でどれほど憎まれても罵られても、どんな天罰を受けても構わない。
どうしよう、どうしようと焦る気持ちが、手元を狂わせた。
「・・・ウンス殿!!」
裁断機が掠めた指先から、赤い血が飛び散る。
私はその左手の指先を呆然と眺める。
ああ、やっちゃった。
媽媽のご出産日までに治さなきゃ。この傷が原因で御子様に、媽媽に何かあったら。
「見せて下さい」
薬草に血が付かないようにとっさに裁断機から離した手を取って、キム先生が眉を顰める。
「残りは薬員にやらせます」
「でも」
「いい加減になさい、ウンス殿。何日布団で寝ていないのです。お気持ちは分かりますが、目に余ります」
「だって、媽媽が」
「媽媽と御子様が無事ならご自身はどうでも良いのですか。ウンス殿に何かあればチェ・ヨン殿はどうします。
それともチェ・ヨン殿もどうでも良いのですか」
その咎める声と視線に首を振る。
駄目、どうでも良くない。あの人だけは駄目、苦しめちゃ駄目。
私は懸命に首を振るだけ。
幸せにならなきゃ駄目、笑ってなきゃ駄目。いつだって。
その為だけにここにいる。一緒に幸せになるために。
「傷の手当てをしてくれる?薬草は薬員の誰かに任せる」
そう言って息を吐く私のお願いに、キム先生は静かに頷いた。
「医仙がけ、けがを」
「・・・行く」
テマンに報告を受け、椅子から腰を浮かせる。
俺の姿にテマンが必死に首を振る。
「い、いえ大護軍、待ってた方が。行き違います、きっとどっかで」
「何故」
「きっとき来ます。ここに」
「来ると言ったか」
「い言ってないけど、でも来ます」
そうだ、テマンの勘は確かだ。信じろ。
己にそう言い聞かせ、大きく息を吸う。
こいつの言葉すら信じられなくなれば終いだ。
あの方が家に戻らなくなったのは、暦が八枚目の半ばに差し掛かった頃からだった。
憑りつかれたように懸命に薬を用意している。
そして典医寺に顔を出すたび、 今にも泣きそうにくしゃりと顔を歪ませる。
ヨンア。
それだけ言って、この腕に飛び込んで来る。
辛いのだろう、無理はするな、役目など投げ出してしまえ。
何度そう言って、あの手を引いてやりたくなったか知れん。
言える立場ではない、出来る筈もない、判っているのに。
あなたは何かを知っている。知っていて黙っている。
それが誰の為かなど訊かずとも判る。
そしてあなたの用意する大量の薬品。
己が出来る事は何だ。あの方に出来る事は。
聞かずに休ませるだけだ、何も考えさせず。
抑えきれずに立ち上がり、部屋をうろつき息を吐き。
早く来い、俺は此処にいる。いつでもあなたを待っている。
それしかできぬ己を恨み、ただこうして窓際に立つ。
姿が目に入ればいつでも駆けて行く、それだけ思いながら。
窓の外、空はいつの間にか高くなっている。
其処に刷毛で刷いたような薄雲が流れていく。
まだ空気は熱くとも、透き通る日差しは秋のもの。
もうすぐそこまで秋が近づいている。
今年は秋夕の祭祀にも、誰もが身が入らない。
暦はあと一枚を残すのみ。
薄くなった分だけ、皆の心に期待と不安が積もっている。
その期待と不安の分だけ、あなたへの負担は重くなる。
その瞬間の窓の外。
視界に飛び込んできた姿に、俺は窓際を離れ階下へ駆け出した。
畜生、階も扉もすべて邪魔だ。
庭へ駆け出ると同時に小さい体が真直ぐ駆けてくる。
駆けて駆けて、その勢いのままがつんとぶつかって。
広げて支えた腕の中、倒れるように飛び込んでくる。
「帰れますか」
首を振るあなたにこれ以上無理など言えぬ。
俺は踵を返す。あなたがその横を歩きだす。
兵舎を駆け出た勢いに、蹴り開けた扉の影から迂達赤らが丸い目で此方を見ている。
その目をぐるりと睨み付ければ、端から慌てて逸らされる。
見ずにとっておいたチュンソクの目を最後に睨み
「誰も近付けるな」
そう言って奴の横を過ぎ、兵舎の階を上がる。
「は」
チュンソクはそれだけ返すと、その場に居合わせた兵たちに
「お前ら素振りだ。槍でも刀でも。終わったら弓だ、早く行け」
その声がかかるが早いか、慌てて兵舎より駆け出る兵たちの背に向かい
「二刻・・・いや三刻は戻るな、絶対に」
最後に奴が声を張った。
小さくなった、この前よりも。
兵舎の私室の寝台に、寝息すら聞こえぬほど憔悴しきって横たわる姿に胸が痛む。
ほんの僅かな音でも目を醒ましそうだ。そう思うと己の息すら厭わしい。
眠らせてやりたい。今だけは何も考える事なく。
あなたの布団の上に出た、包帯を巻いた左手の指先に目を当てる。
握ってやりたい、それでも起こすのが怖い。
この方の用意する薬品。そしてこれ程緊張する理由。
考えるほどに、胸の中に黒い雲が沸く。
振り払っても振り払っても、何処までもついてくる。
まるで月夜の己の足元に長く伸びる影法師のように。
イムジャ。
何が起きると思っている。
いや、何が起きると知っているのだ。
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