2014-15 リクエスト | 碧河・5(終)

 

 

「此処だ」

隊長がリディア殿を案内したのは、司畜署の皇宮の厩だった。
迂達赤や禁軍の騎馬隊の軍馬、そして王様の馬車馬。
恐ろしい程多くの馬たちが横木に沿って一列に繋がれている。
厩舎内は吐く息、飼葉を食む音と体から上がる熱で満ち、息苦しささえ覚えるほどだ。

「信用したわけではない」
隊長の冷徹とも思える声にリディア殿は頷く。
「分かっています。さっきの馬を診察したいだけだ。そしてチャン先生を斬った御詫びに、他の馬を」
「兵に見張らせることになる」
「承知です」
リディア殿は微笑んでそう言った。

「お約束します。明日の朝、今よりも体の悪くなる馬は絶対にいない。
そしてもちろん馬泥棒などしません。私の国では馬泥棒は、金泥棒よりも重罪だ」
「そうか」
隊長はその声に顎で頷いた。
「では」

リディア殿は話もそこそこに切り上げ、厩舎内を歩き始める。
通路の両脇の横木に繋がれたそれぞれの馬の一頭一頭に触れ、じっと様子を見ながら一通り歩き続ける。
私はその様子を眺めるともなく眺めていた。不思議なひとだ。
馬の間を歩きその体を撫でている時の方が、私たちといるより余程活き活きとしているように見える。

一頭の前にしばらく留まる事もあり、鼻面をそっと撫でるだけで通り過ぎることもある。
「侍医、行くか」
「・・・ええ」
折しも深く頭を垂れて通り過ぎた司畜署の官員にふと思い出したよう、隊長が声を掛けた。

「待て」
「はい!」
若い下級官員は迂達赤隊長に急に声を掛けられ、ぴたりを足と止めたまま、見るも哀れなほど緊張している。
「今日俺達が牽いた馬」
「は、はい」
「足の悪い馬はいたか」
「足の悪い馬を隊長や皆さまに牽くわけがありません!何かあれば一大事です」

ふむ、と隊長が喉奥で声を上げる。
「・・・はったりか」
「何かございましたか」
「いや、案ずるな。
あの女から目を離すなと見張りの衛士に伝えろ」
「畏まりました!

その返答を聞きながら私たちは厩舎を出た。
最後に入り口で振り返るとあの人は振り向きもせず、ただ馬の様子をつぶさに眺め、あちらこちら触れるばかりだった。

 

*****

 

陽は完全に暮れたというのに。
私は自室の卓前で書物を整頓し、書きかけの不如意な書を推敲し、今日の出来事を思い出していた。

かなり出血もした。
鍼で麻酔した腕の傷の痛覚は完全に戻り、疼く痛みが血の流れと共に響く。
発熱はなさそうなのが 唯一の救いか。
痛みを散らすために丹田より深く呼吸を繰り返す。

あのひとはそう言えば。肝心な事を思い出し椅子から立ち上がる。
すっかり忘れていた。夕餉はどうしたのだろう。
私は急いで部屋の扉を開け、大声でトギを呼んだ。

トギに用意してもらった夕餉の膳を抱え、司畜署への道を急ぐ。
大食国の方が何を召し上がるのかは分からぬが、まずは空腹を満たして頂かねばなるまい。
そう思いつつ、司畜署の厩舎へと踏み込んだ。

入口に立つ守りの衛士たちが、私を見て一斉に頭を下げる。
「チャン御医様」
「典医寺が預けたお客様は何処に」
「この奥にいらっしゃいます」
衛士が指差した処は、積み上げた飼葉が小さな丸い山になっていた。
よくよく見ればその山頂は僅かにへこみ、そこに半ば埋まるようにあの人が体を曲げ、頭を突っ込んでいた。
そこへ歩み寄りながら、飼葉の山へと声を掛ける。

「夕餉代わりに飼葉を召し上がっているのですか」
その声にあの人が体を起こした。
髪にも顔にも、その長い睫毛にも飼葉屑が付いている。

「違う。こんな風に飼葉を山にしておいたら、中が蒸れてしまう。
変質していないか、確かめていたのです」
そう言って私の軽口に、真剣な顔で首を振る。
「では馬の飼葉の後は、あなたの夕餉を。運ぶのが遅くなり本当に申し訳ない」
その言葉にリディア殿は、碧の目で不思議そうに見返す。
「夕飯を出し忘れるより、あなたを斬」
「リディア殿」

この人の声を遮るように、僅かに大きな声をかける。
衛士たちがこちらを注視しているのは分かっている。
何しろ隊長からも、目を離すなと言われているのだ。
万一にもその告白が、彼らの耳に届いてはならない。

「馬の横では、食べにくいでしょう。 外で召し上がりませんか」
これ以上、この人がここで何か言えば厄介だ。
丁寧な言葉とは裏腹に些か強引に、私はこの人の背に手を回し、押し出す様に厩舎から連れだす。

「チャン先生、私は馬の横が良い。落ち着くのだから」
「分かりました。召し上がればすぐにお戻りください」
「しかし頭数が多い。外で呑気に夕飯を取る時間はないのです」
「ならば時間の間に、診られる馬だけ診てください」
「そんな風に選ぶことはできない」

私が押していた背がぴたりと止まった。
押していた掌に少しばかり力を入れるが、その背は全く動かない。
リディア殿は私を碧の目で見上げ、はっきりと言った。

「チャン先生は目の前に五十人患者がいるのに、時間がないからと四十人だけ選んで診ますか」
「・・・・・・」
「診ますか、診ませんか」
「・・・診ません。全員診るまで動きません」
「ならば邪魔しないで」

そう言ってリディア殿は踵を返し、厩舎へと駆け戻って行く。
私は片手に運んできた盆を抱え、その後をついて厩舎へと戻る。
あの人は先刻私と共に乗り皇宮まで戻って来たあの馬の横木の前で、じっと馬を見つめていた。
そしてその横木を潜り、馬の右横へ立ち、後脚を撫でて行く。

あるところまでその手が触れた時。
馬は急に嘶くと前脚で逆立ちのように重心を取り、あの人の方へと後脚を蹴りだした。
私は持っていた夕餉の膳を取り落とした。慌てて駆け寄り
「リディア殿!」

そう叫ぶと、あの人が馬の影から顔を見せた。
そして平然とした碧の目でこちらを一瞥すると
「大きな音を出すのは止めて下さい。馬たちが驚く」
そしてもう一度馬の足元へしゃがみ込み、胸元からあの小刀を出し馬の右後脚の蹄へと鋭い刃先を差し込んだ。
小刀を斜めにしてほじると、蹄から少し大きめの石がころりと出てくる。
「これではいやがるはずだ。深さからすると入ったのは昨日か一昨日。
ここの厩舎では、こんなことも気づきませんか」

その石を指先で摘まみこちらに見せながら、この人は息を吐いた。
「よく今日、ここまで往復してくれた。偉い偉い。頑張った」
そう言って馬の首を撫でると横木をくぐって 此方側へと戻り、傍の桶を担ぎ上げる。
「蹄を洗いたい。水と束子を下さい。それから蹄油を」
衛士の横まで歩くと彼らに問いかけ、あの人はこちらを向いた。
「と言うわけで、時間がないのです。その落とした夕餉はご自分で片付けて下さい。
そんな強い匂いをさせたら、厩舎中の馬がみな気分が悪くなる」

そう言って水の入った桶と油の入ったらしき入れ物を受け取り、この人がこちらに向かって戻って来る。
「ではおやすみなさい、チャン先生」
すれ違いざまそう言うと少し微笑み、あの人はまた横木を潜って馬の右横へと消えた。
私は溜息を吐くと、汚れた飼葉ごと落とした膳を片付けた。
そして片付け終え、急いで厩舎を走り出る。
新たな夕餉を、いや、片手で召し上がれるように小さく巻くか握った飯をお持ちするために。

急いで用意した別の夕餉を持ち、司畜署の厩舎へ取って返す。
あの人は照らした油灯を片手に、未だに馬の様子を見ていた。
ふと一頭の馬の前で、その足が止まる。
そして胸元に手を入れると、恐ろしく太く長い鍼のようなものをぞろりと引き抜いた。
「それは何ですか」
「またいらしたのですか」

こちらに目もむけず、鍼先を油灯に照らして確かめながら、この人は呟いた。
「馬の腸はとてもとても長い。その分詰まりやすい。この子も今疝痛を起こしている。
中身を動かすために鍼を打つのです」
そう言いながらまた横木を潜り足元に油灯を置くと、馬の前脚から順に骨を数えるように指を滑らせていく。
馬に鍼。初めて見ると、私は目を瞠る。
「効くのですか」
「もちろん。効かなければ打つだけ可哀想だ」

そう言いながら、馬の点穴らしきところへ鍼を打つ。
先程のように馬が暴れたらと肝が冷えたが、そんな様子は全くない。
馬はその耳を動かすだけで、大人しく立ったままだ。

「チャン先生、離れていた方が良い」
この方がまた横木を潜って戻りながら、面白そうに言う。
「何故です、また馬が暴れそうですか」
「いいや、そうではなくて」
と、碧の目が悪戯そうに笑む。

「この子の腸に入っていたものが、一時に出てくるから。
腸の中で留まっていたものだから、慣れない人はその匂いで、しばらく食事が喉を通らなくなる」
「私とて医者です、そうしたものには慣れている」
「・・・そうですか。無理にとは言わない。私は後始末があるので ここからは離れません」
「あなたが夕餉を召し上がるまで、共に待ちます」
「どうぞ、ご自由に。私の厩舎ではないですし」
この人は肩を竦めて、そう呟いた。

 

******

 

・・・外の空気がこれ程清々しいとは。
厩舎を出た私は、何度も深呼吸を繰り返す。
私に付き添い共に厩舎を出たこの人が、呆れたようにこちらを見る。
「言ったはずだ」
「・・・おっしゃる通り。返す言葉もない」

鼻口を手拭いで押えたままの私の声に堪え切れなくなったか、この人が笑いだした。
厩舎の外の星空にその透き通った笑い声が溶けて行く。
ひとしきり笑うと、この人はこちらへ目を戻した。
「診させてくれてありがとう。一通り診られました。他の馬たちはほとんど健康です」
笑いすぎて目尻に浮かんだ涙を指で拭いながら、この人が言った。

「では、夕餉を召し上がって下さい」
「いえ、今チャン先生の横で夕飯は食べられません」
「私の事は気にせず」
「そうではなく、飯の匂いと混ざると、もっとひどいことになる」
口を押さえ直す私を横目で見ると、この人はくくく、と笑った。

そして大きな木の根元まで歩きその幹に触れて、さっきまで馬の鼻面を撫でていたように優しく摩る。
「高麗には、緑が多いですね」
「大食国には少ないのですか」
「ええ。我らの国は砂漠の国です。緑はとてもとても少ない」
そして星空へと目を上げる。
「夜の星の色も月の色も、高麗とは違う」
「そうですか」

見たこともない砂漠の国。
その砂漠の白い砂を蒼く染め上げるだろう夜の闇と月星の色を、私は思い描く。
その砂漠に蒼い影を落とし、長い髪を垂らして立つこの人の姿も。
その闇と月星を映して色が変わるであろう碧の目も。

「あなたは、人間の医者だと思っていた」
「ええ、学んだのは人間の医術です」
私の声にこの人が頷く。
「それにしては、馬にとても詳しい」
「馬や駱駝は家族です。医を学ばぬ母親とて、子の病気には詳しい。
誰より的確に面倒を見るでしょう。違いますか、チャン先生」
「おっしゃる通りです」
私もその声に頷き返した。

「リディア殿」
「はい」
「訊いても良いですか」
「・・・何ですか」

訊こうとして、言葉を載せた舌が固まる。
あなたは誰なのですか。どんな方なのですか。
それを知りたいのだろうか。
あの男たちは誰ですか。何故彼らを刺そうとしたのですか。
本当に、それを知りたいのだろうか。

なぜ人間の医術を学びながら、馬を診ているのですか。
それが如何したというのだろう。
なぜ人間の医術を学んだら、人間を診るべきなのだ。
そんな決まりなど何処にもない。

この人には自由の匂いがする。
その髪からも、意志の強そうな真直ぐな眉からも。
高麗の月と星に照らされ色を変える碧の目からも。

決めたら誰に何を言われても曲げぬ強さと。
行く手を阻むものは殺めるほどの危うさと。
その清濁を併せて抱いた自由の匂いがする。

「・・・高麗は、お好きですか」
気付けばそんな風に訊いていた。
「は?」
この人が気の抜けた声で返答する。
「しばらく高麗に、碧瀾渡に留まりますか」
「特に帰途を急ぐ旅ではありませんが・・・」

そうか、と私は息をつく。
それならばまた薬房で逢えるかもしれない。
薬房だけでなく、礼成江の畔でも。碧瀾渡の町角でも。
そして、もしかしたら。

「馬が調子が悪くなったら、また診て頂くことも出来ますか」
何しろこの人のように馬に鍼を打てる者など、司畜署にいると聞いたことがない。
素晴らしい腕を持っている方だ。
「ここにいる間は、力になれれば」

そう頷くこの人の黒い髪が揺れる。
ゆっくり知っていけば良い。焦る事など何もない。
風のように自由に吹き抜けそうな人だから。
知れば知るほど興味が沸く。その声に驚かされる。

結局私はこの手の女人に弱いのだ。
知らぬ世界の扉を、目の前で開いてくれる女人に。
そう思いながら、微かに苦く笑む。

「ではまず、夕餉を召し上がれ。私は少し離れていますから」
懐から取り出した包みに伸ばすその細い指先に、私の目が止まる。
「チャン先生、あなたを斬ったことは、本当に済まなかった。
馬を診るくらいで罪を償ったとは思わない。ごめんなさい。
私の国では、与えた罪と同じ罰を受ける経典があります。
あなたは私を斬って良いんです。その権利がある」
「リディア殿」

静かな私の声に、彼女の碧の目が上がる。
「いつか訊くかもしれません。その時答えられるなら答えて下されば。
今は良いのです。本当に」

こうしているだけで、愉しく安らげるから。
あの碧の河の畔で風に吹かれる気分になれるから良いのだ。
そう思いながら私は手の中の夕餉を、その細く小さい掌にしっかり握らせた。

隊長に伝えねばならない。
馬の蹄に石が入っていたことも、この人の偽りではなかったことも。

あの隊長はどのような顔をするだろうと思いつき、私はそっと笑んだ。

 

 

【 碧河 ~ fin ~ 】

 

 

 

 

【 碧河 】終了です。
幸せになったのか・・・?うーん、なところではありますが。
これ以上追いかけると、また止めどなくなるので。
まるっと皆さまの妄想に、お任せいたしますw

ichigoさま、素敵なリクありがとうございました。
そしてヨンで下さった皆さま、ありがとうございました。

予想はしていましたが、アメンバー様関係で押せ押せです。
週末まで、暫し更新滞るやも知れませぬ。
申し訳ありません・・・m(_ _ )m

皆さまのぽちっとが励みです。ご協力頂けると嬉しいです❤

今日もクリックありがとうございます。
にほんブログ村 小説ブログ 韓ドラ二次小説へ
にほんブログ村

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です