目の前に長い石造りの段が見えてくる。
この方はその段を慎重に下りながら俺を見る。
どうした。
眸で問うと首を振り、次に何を思ったか。
この方は石段を真中で区切る冷たい銀の手摺のくぐり、その向こうへ身を躱す。
その不在を恋しがる腕を、手摺の此方に残したままで。
「イムジャ」
不安に思わず声が上がる。
「どうした」
伸ばした手を手摺の向こうの小さな手が掴み、あの瞳が眸を覗き込む。
「ねえ、ヨンア」
手摺の向こうと此方に分かたれたまま、あの方が俺を呼ぶ。
「ずっとここにいても、大丈夫?もし帰れなくても、大丈夫かな?耐えられる?怖くない?
私が高麗に行った時どころじゃない。あなたがここに来ちゃったら本当に歴史が変わっちゃう。
あなたの運命を変えちゃう。私はそれが一番怖いの」
俺はその瞳を見つめた。
それ程に心配ならば幾度でも言ってやる。
約束を違える怖さよりもあなたを失う怖さの方が、この心には幾倍も辛い。
「大丈夫だ」
そうなれば王様には心底申し訳ない。
残して来た迂達赤の奴らも気掛かりだ。
それでもあなたさえ居れば、何処であろうと。
歴史が変わる事など俺には関わりない。
時とは掉差して止められるものでない。
俺はただあなたと共に居たい。
それさえ叶えば何処であろうと。
「天界であろうと、高麗であろうと」
俺は手摺の此方から身を乗り出す。
二度と離さぬ、例え手摺越しでも。
「心配するな」
銀の手摺越し、掴んだあの方の手がこの手を離れた。
そのままこの首へ回され、柔らかく引き寄せられる。
いつもよりも近くなる白い頬。
その長い睫毛に、俺は見入る。
「大丈夫だよね。いつも一緒。絶対に帰ろう、2人一緒に」
その声に俺は頷いた。
あなたさえいれば、全てうまくいく。俺にはそうとしか思えぬ。
あなたがいなければ高麗にいようと、事がうまく運ぶと思えぬ。
だから何があろうと、何処であろうと。
心配などするな。不安になどなるな。
決して離れぬ。必ず誰より傍で護る。
だから此処に居ろ。何処へも行くな。
その睫毛が震えながら伏せられる。
俺が寄せる唇の、速さに合わせて。
冷たい銀の手摺越し。
ただ伝わるようにとだけ祈り、俺は紅い唇へ己の唇をそっと落とした。
温かい唇を手摺越しに感じ、静かに眸を開く。
同時に目の前のこの方の睫毛が閉じた時と同じよう、震えながら開く。
見慣れた俺達の、寝台の上で。
俺とこの方は互いの睫毛が触れる至近の距離で、目を合わせた。
合わせた瞬間、俺は跳ね起きる。
起こすと同時に風儀にて枕元へ手を伸ばせば、鬼剣の剣身がかちゃりと小さく、納めた鞘に触れる音がする。
その横でこの方も慌てて半身を起こす。
鬼剣をこの手の中で確かめる。その重み、握り心地。
夢ではないはずだ。
俺は今また此処に居る、この方と共に。
振り返れば最後に二人共寝をした時の、この方の羽織った夜着のままの姿。
続いて己を確かめれば、あの夜寝床に入る前羽織った寝間着が確かに見える。
しかし俺達は先刻まで天界の衣服を纏い、
あの石造りの階段で、吊られた箱の中で、
馬のない馬車で、こおひいの店で、
青銅鏡の小部屋で、白い仏像の裏で。
「い、むじゃ」
「・・・・・・分かってる、言わないで」
「言わないで、とは」
「口にしないでってこと」
「いや、そう言われても」
そう言われても。
あれは寝惚けて見た真夜中の夢か。
この方も同じ夢を見たというのか。
「イムジャ」
「うん」
寝屋の油灯の薄闇の中でも分かるほど、白くなったその顔に声を重ねる。
「こ、おひいを」
「・・・うん、あなた美味しいって」
「あの、狭苦しき小部屋は」
「男子トイレ」
「あの、箱の落書きは」
「初めての夜・・・?」
「俺達は、石段で」
「うん・・・」
待て。待ってくれ。
「イムジャも、まさか」
その声にこの方が頷いて囁く。
「嘘、でしょ」
俺はその顔を見詰める。
そして首を振り、目の前のこの方へ訊ねた。
「・・・飲まずに居られますか」
「え」
「こおひい、を」
その問いに呆然としていた瞳が揺れ、次にこの方が笑い出す。
あの花が咲くような大きな笑み、離れても耳に入る大きな声で。
「もういい、本当にいらない。ここに一番、大切なものがある。
コーヒーなんかと代えられない」
俺もその声に頷いた。
「だから大丈夫だと言ったでしょう。
あなたさえ居れば、俺は何処であれ」
そう言うこの身に寝台の上、この方が飛びつき押し倒す。
それを抱き返し、俺は体を入れ変える。
上からその顔を見つめ、小さな顔にかかる髪をこの指で摘まんで除ける。
この方は寝台の上に長い髪を広げ、俺を真直ぐに見上げた。
揺れる薄明かりの油灯の中この身に腕を回して強く抱き付き、いつまでもいつまでも、笑い転げていた。
【 首爾2012 ~ Fin ~ 】

BS【信義】再放送前にひと盛り上がり❤
まんまの夢オチ!
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次回は「ヨンヨン(44)」長編参ります❤
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