2016再開祭 | 黄楊・玖

 

 

「・・・まだお戻りではないですよ、チェ・ヨン殿」
この男の呆れ顔にはもう慣れた。霧雨の中、薬草を摘む後姿。
濡れた足音に気付き振り返る侍医が、あの方の私室の棟を目で示す。

「先刻から慌ただしそうですが。何かありましたか」
「・・・いや」
弾んだ息を整えて、それだけ言って首を振る。
チュンソクにすら伝えぬ委細を、この男に伝える気など毛頭ない。

「典医寺にも坤成殿にもいらっしゃらぬのなら、あとは・・・」
侍医は呟きながら眉根を寄せて俺を見た。
「康安殿かと」
「何の為に」

典医寺の医仙とはいえ、王様の御体を拝診しているのは侍医だ。
あの方はあくまでも王妃媽媽、そして内外命婦や尚宮らの診察だけをしている筈だろう。
俺の問いに奴は肩を竦めた。

「さあ、理由までは・・・しかしそれ以外の場所にいらっしゃるならば、もっと問題でしょう」
確かに言う通りだ。
しかし俺が典医寺への残留を説得する前に、あの方が王様に何を口走るかが怖い。
俺が去る事が理由で御自身も辞するなどと口にすれば。

そして叔母上の一件。王様の御耳にまで入ればもう後戻りは利かん。
役目を辞すとはそれ程に重い言葉なのだ。
「帰って来たら引き留めろ。絶対に何処にも行かせるな」
「・・・判りました、努力しましょう」

努力などではなく、袋に詰めてでも口を塞いででも引き留めろ。
胸座を掴み上げそう怒鳴りつけたい気持ちを堪え、今来た道を走り出す。

相手があのチャン侍医なら、俺の一言を聞いて言った筈だ。
引き留めておきます、なり、落ち着いて下さい、なり。
今更こんなにお前の助けを必要とする。あの声も、良く廻る頭も。

雨の典医寺の薬園を駆け抜けながら思う。
侍医。お前の心がまだ守り続けたあの方にあるなら。
この守り続けた典医寺に残っているなら、助けてやってくれ。
あの方が取り返しのつかぬ言葉を口にせぬように。
口走る前に戻って来たら、俺と話すまで王様や王妃媽媽と御目通りが叶わぬように。

帰って来たら引き留めろ。転ばせるなり・・・いや、痛い思いは駄目だ。
髪を引くなり衣に墨を零すなり、金縛りに遭わせるなり何とかしろ。

こんな気持ちか、藁にも縋るというのは。
本気でそんな事まで考える己を半ば哂いつつ、雨の中をただ走る。

 

*****

 

「・・・これは、珍しい」

康安殿の入口から滑り込む影、続いてぱたぱたと床を打つ足音。
元の姫君と天界の方では、その歩き方からして違うのだろうか。

王様はそうだけおっしゃると、その後の御声を詰まらせた。
確かにお珍しい。王妃媽媽と医仙様が、御二人が揃って王様の御元においでになるなど。

先刻の坤成殿からの退出時、御邪魔した事は王様にはくれぐれも内密にと、チェ尚宮様から固く口止めされている。
念を押され私と迂達赤隊長が一足先に退出した後も、王妃媽媽とチェ尚宮様、そして医仙様だけは御部屋に残っておいでだった。

そのお言葉がなくとも、王様付きの内官長の私が王様の御許しも得ず王妃媽媽の殿へ伺うなど、本来許される事ではない。
私は素知らぬ顔で康安殿の扉横に控え、御部屋の空気の振りをする。
音を立てず、気配を殺し、何も見ず、何も喋らず。
そして王様が何かをお尋ねになられた時にだけは正確にお答え出来るように、耳のみを働かせて。

「御二人でおいでとは。一体・・・」
「昨夜、媽媽とお2人で夜更かしされたと伺ったので。キム先生の朝の回診時には、何か言われましたか?」
王妃媽媽は元気良くそうお答えになる医仙様の横、心配そうな御顔で王様の御様子を伺っていらっしゃる。
王様も侍医殿ではなく医仙様に尋ねられ、曖昧に御首を振って執務机の前の階をゆっくり降りて来られた。

「いや、特には。王妃に何かありましたか」
「いえいえ、そうじゃないんです。媽媽が少し寝不足気味だったので、念の為に王様にも問診をと思って来ました」
「寡人は、特に問題はないが」
「それなら良かったです。今日はよく召し上がって、今晩は少し早めにベ・・・お布団に入って下さいね。
もしお時間があれば、媽媽と少しお散歩するのも良いです。雨なので濡れないように、東屋でお庭を見るとか」
「そうします。医仙にまで心配を掛けて申し訳ない。お座り下さい」

階を降りた王様は御口許を下げて苦笑を浮かべられると、御部屋内の長卓を示された。

お茶をお持ちなさい。

私は口の動きで部屋に控えた内官に指示を出す。
それを受けた内官は目だけで頷くと、裏戸から音もなく廊下へ滑り出る。
御部屋内に私、そして王様をお守りする迂達赤副隊長だけになった処で、王妃媽媽は王様へ向かって静かにおっしゃられた。
「王様」
「どうしたのです」
「折り入って大切なご報告があり、無礼も顧みずこうして伺いました」
「成程。どのような話であろうか」
「チェ尚宮の任を解きます」

・・・こんな時にも空気の振りは難しい。
私の呑んだ息に医仙様の視線が、素早くこちらへと走った。

 

 

 

 

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