夜の宮廷の庭を走る。いつもならとうに庵に帰り着いている刻。
あの男は私の帰りを心配しているだろうか。
それとも私が戻らないなんて気づきもせずに、今夜も庭で一人、月を見上げているだろうか。
あの夜以来、ソンジンもおかしくなった。
庵に戻るまで顔を合わせる事は少ない。
禁衛の役目で忙しい男は、そのほとんどをあちらこちら飛び回っているらしい。
らしいというのは、お喋りな女官たちの噂で聞いたからだ。
今の私たちは二人でいても、話す事すら少なくなったから。
それでもこうして月明りを頼りに庭を走れば、あの不愛想な男が懐かしい。
あの頃宴席への送り迎えに付き合わせた数回の道行き。
不機嫌な顔をして傘を傾けた男の肩の高さも腕の長さも。
盗み見た硬い横顔も、何もかもが懐かしい。
そして今、私は一人で夜を走る。
仕方ない。あの男には役目があるし、いつでも私を見ていて欲しいなんて願える立場じゃない。
胸が苦しくて立ち止まる。
いくら大監の呼び出しとは言っても、少しくらいは許されるだろう。
苦しさを走ったせいにして、立ち止まって息を整える。
そこからもう一度見上げる空に、掛かる大きな丸い月。
私はまた何かやらかしただろうか。
それともあの男が後悔しているだけなんだろうか。
だから言ったじゃないの。行きなさい、あなたの生きたい処へと。
反正の夜、王陵奉恩寺で見たあの光。
もしも本当にウンスがあの光の先から来たなら、私が叶う筈がない。
あんな光は見た事がない。
何処までも清くて、何処までも眩しくて、そして何処までも勇気を持たない愚か者を拒む光。
敵う筈がない。
何処までも穢れて、何処までも嫉妬に濁って、そして何処までも卑怯で臆病者のこんな自分が。
内も外も医術の腕も、目が醒める程美しい。
その通りなんだろう。もう理屈じゃない。
あんな光を見せられた今、ソンジンの言葉の意味がよく判る。
あの光の先にいる女に敵う筈がない。私で太刀打ちできる筈がない。
あの光の先に行かなかったソンジンを抱き締める事しか考えられない、汚れた自分が。
それだってソンジンの為かどうかすら判らない。
此処に残ってくれた男を誰にも渡したくない独占欲。
たとえ岡惚れでも触れたい欲。
そんな欲にまみれた自分が、確かにここにいる。
なのにソンジンを見るたびに、心に響くこの声は一体誰の声だろう。
気が付いて、どうかお願い。あの人を守って。
あなたのあの人を、私のあの人をどうか守って。
あの人はとても時間がかかるの。遠回りばかりするの。
不器用で、すぐに目を逸らそうとするから。
お願い、気が付いて。あの人を、どうか守って。
震えるそれは、心からの祈りの声。
そしてもう一つの、あの胸が締め付けられる声。
イムジャ。
あなたが笑う。その笑顔に心からほっとして、でも悲しくて。
どうして気付いてくれないの。私はこんなに近くにいるのに。
どうかお願い。気が付いて。あなたの私が、ここにいる事。
ねえ、あなたは誰。そしてあなたたちは誰。
誰に、何に、どうやって気が付けば良いんだろう。
どうやって気付いてもらえと言われているんだろう。
少なくとも今判っているのは一つだけ。パク大監に会いに行かなければならない事だけだ。
もう一度夜の庭の中に走り出す。
響く声も、そして泣きたくなる程懐かしい黒い瞳も、心の隅に置いて。
忘れる筈なんてない、忘れられる訳がない、そんな確信だけを抱いて。

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