2016再開祭 | 黄楊・伍

 

 

「隊長」
「チェ尚宮殿、今お会いしに行くところでした!」

薄暗い迂達赤兵舎に踏み込んだ途端、土床の吹抜の奥から走り出て来た隊長との正面衝突を寸での処で避ける。
その一言で判る。この男も知らぬ。
互いに同じ事を知りたかった筈だ。
あの厄介ばかり起こす男に此度は何が起きたのか。己に何が出来るのか。

「あ奴と話したか」
「役目を辞すとだけ。御邸も引き払うと飛び出されました」
「邸を」
「はい。早晩引き払うので、それまでは何かあれば来いと」

あ奴の右腕として石橋を叩いても渡らぬ程慎重なこの男が、今は血相を変えて私を見る。
「事の詳細を伺う為、チェ尚宮殿のところに伺おうと」
「私にも判らぬ。同じ事を確かめに来た。そなたになら奴が何か話すかと思ったが」
「詳細は言わず、役目を辞すとだけ。医仙には典医寺の務めを続けるよう説得すると」
「それは無理だな」
「はい。俺も有り得んとお伝えしましたが」

医仙には役目を続けさせ、己は辞する。
という事は医仙絡みでの出奔ではない。
奴が役目を辞すると決意する程、我慢できぬ事。

「隊長」
「はい、チェ尚宮殿」
「坤成殿へ来い」
「・・・は?」
「奴から聞いた話を全て、包み隠さず王妃媽媽にお伝えしろ」
「それはなりません!自分は王様の近衛です。
王様が御口になさらぬ事を、又聞きしただけの自分が王妃媽媽にお伝えするのは。
大護軍もいらっしゃいませんので、自分は王様の御許へ」
「隊長」
「はい」
「臨機応変という言葉を知っておるか」

上役のあ奴も融通が利かんが、それを慕ってついて来るこ奴も。
その目を睨んで吐き捨てると、隊長は困り果てたように項垂れた。
「しかし、チェ尚宮殿」
「人が居ないわけではない。王様の衛は副隊長に預けろ」

それ以上の御託は聞かず、尚宮服の裳裾を返して雨中へと戻る。
音もなく降る雨に頭巾を被り直し肩越しに視線だけで振り向くと、隊長は肚を決めたようにその扉から出て来た。

 

*****

 

坤成殿の御部屋内、いつもであれば集いようのない面々が並ぶ。
王妃媽媽の座られた横を守る私、卓向うの正面にはウンス。
卓の脇には私の強引な呼びつけに致し方なく応じる羽目になった迂達赤隊長と内官長殿が、所在無さげに佇んでいる。

静かに降り続く雨音の方が大きく聞こえる程、室内は無音のまま。
いつもと変わらぬのはウンスだけだ。
「で、チュンソク隊長、あの人は何て?」
脇の迂達赤隊長を見上げるとそう口火を切った。隊長は首を振り、先刻私に告げた言葉を繰り返す。

「自分も詳細は伺えず。ただ役目を辞す、アン・ジェ殿、手裏房や巴巽村、ムソン殿には話は通すと。
邸も引き払う、兵に気を配り鍛錬は今まで通り続けろ、医仙は典医寺に勤め続けるよう説得する、と」
その声にウンスと王妃媽媽の声が重なる。

「邸を引き払う?」
「どういう事です、医仙」
そして重なった声に戸惑うように、互いに視線を交わされる。

「あの人昨日は、そんな事言ってませんでした」
「では、医仙にご相談もなく屋移りをお決めになったのですか」
「王様に頂いたお邸だから、住めないと思ったんだと思います」
「そんな事は有りませぬ」
王妃媽媽は御口調を僅かに強め、卓越しにウンスをご覧になった。

「医仙の高麗御帰還のお礼に、そして大護軍の戦果の褒章として御二人に差し上げたのです。
兵には田畑を、大護軍にはあの居所を。覚えていらっしゃいますか。
それを返上されるなど道理に反します。大護軍は一体」
「あの時も言ってました。王様が必要になった時には真っ先にお邸を返しますって。
ってことは、今回問題なのはお金?」
「それはございません、医仙様」

押し黙り話を聞いていた内官長殿が、慌てたように首を振る。
「内需司の動きは把握しております。大護軍より、不正の温床になりやすい為、妙な動きがあらばすぐに王様への御進言をと仰せつかっておりました。
それ以来目を光らせておりますが、財物の不足や不審な出入納は一切ございません」
「じゃあ、お金じゃない・・・」
ウンスは苛立つように唇を噛み締め、王妃媽媽は不安げにウンスへ再びお問いになられた。

「医仙も大護軍と共に、典医寺を辞されるおつもりだったのですか」
「昨夜はそんな事まで全然話してなくて。でもチュンソク隊長にはそう言ったのよね?
自分は辞めるけど、私は残すって」
「はい、医仙」
迂達赤隊長が呼ばれて頷き、確かな口調で断言した。

「あの人が辞めて私が残るなんてありえない。知ってるはずなのに」
「自分も難しいのではと伝えましたが。皇宮には絶対に必要な方だ、これからも王様と王妃媽媽にお仕えするよう説得すると」
「じゃあ、私が何か失敗したわけでもない・・・」
医仙の声に王妃媽媽は驚かれたように御首を振られた。

「ある訳がございません、医仙。今まで医仙に救われた命は多かろうと、医仙が責を負って辞する問題は何一つ起きておりません。
ましてや、それを理由に大護軍が辞するなど」
「でも、じゃあなおさら分らないです媽媽。あの人が辞める理由が」

ウンスの声に王妃媽媽は思い起こすよう御指先で御自身の頬に触れ、一言ずつ区切るようにおっしゃった。
「王様は・・・再び、大護軍を裏切った、と」

再び。王妃媽媽の御言葉が心の隅に引掛かる。
再び。という事は過去にも起きたという事だ。

王様があ奴の望まぬ事を強要されるなど、想像もつかぬ。
時折畏れ多くも主君と臣下の立場を超え、心が通じ合っているようにすら見える。
それはこの場に集う全員の総意でもあろう。
まして余程の無体でない限り、忠義一途なあ奴が王命に逆らうなど。

「再び、裏切った?」
ウンスも同じ処が気になったのだろう。
王妃媽媽から外した視線が、次に坤成殿の御部屋の中空を彷徨う。
同じ言葉を繰り返しながら。
「再び・・・」
「はい、医仙。何か思い当たる節がおありですか」
「あの人が嫌いなことを考えてたんです。
不正、裏取引、過大評価、面倒くさいこと、自分じゃなく周囲のみんなが傷つくようなこと。
でも今まで王様が、あの人の嫌がることを押し付けたなんて」
「不正、裏取引、過大評価、面倒・・・押し付けた」

王妃媽媽がウンスの声を、鸚鵡返しに繰り返される。そして
「・・・あ」
急に小さく御声を上げると御手元で御口を抑えた。
「どうされたんですか、媽媽?」
「王様が、以前・・・」

王妃媽媽は思い出すようにゆっくりと御声を続けた。
「確かにおっしゃいました。厭がると判っているのに官位を与え、皇宮へ呼び戻したと。
皇宮から玄高村に出ていた折に」

あの時の出来事は此処にいる全員が知っている。
内官長殿も迂達赤隊長も、王妃媽媽の御声に深く頷いた。
医仙を連れ出奔していたあ奴が、戻って来た時。

「此度の働きで隊長に免謝をと。新たな玉璽で最初に下された王命は隊長の復職と護軍への昇格。王様が最も望まれた事です」
「じゃあ」
「・・・昇格でしょう。王様の御提案は」

恐らくこの読みに間違いはない。 膝を打ちたい思いで思わず声が出る。
「迂達赤大護軍が昇格するとなれば、正三品上護軍」
「上護軍・・・すごいラン、じゃなくえーと、官位ですか?」

全くこの甥嫁は、事の重要さが判っておらぬ。
幼子に噛んで含めるように、ゆっくりと判り易く説いてやる。
「正三品といえば皇宮でもそれより上位は、数える程しかございません。
武官としてはその上にあるのは、上將軍と將軍のみです」
「上から3番目?」
「あの男はまず着る事はありませんが、殿上衣も変わります。
今までの軍議だけではなく、都堂や御前会議には必ず列席する事になります。
俸禄も桁違いですが、今までのような勝手な振舞いは許されません」
「ああ・・・それじゃあイヤがるはずです」

ようやく事の重さが判ったか、ウンスは渋い顔で首を振る。
「あの人はお給料の事なんて気にしません。束縛されずに自由に動くのや、みんなと一緒にいるのが好きだから」
ウンスの言葉に尤もだというよう、迂達赤隊長が深く頷いた。
「今もきっとみんなのおかげでここまで来たのに、何で昇進するのが自分なんだって怒ってるはずです。
王様に対してじゃなく、自分に怒ってるんです」

しかし王妃媽媽は困った御様子で御首を振られた。
「医仙、物事には順序がございます。無論王様とて今後それぞれの昇格は考えておられるでしょう。
現在我が高麗を動かし、王様の最大の支えとなっているのは大護軍始めとした西班、武官らです。
けれど大護軍が昇格してからでなくば、官位に空席が出来ませぬ。
故に彼らを束ねる大護軍に、先ずご提案されたのでしょう」
「そうですよね・・・でもあの人の性格からして1回断わった以上ウンとは言わないだろうし、チュンソク隊長にまで宣言したんなら」

唯でさえも雨で重苦しく、昼というのに薄暗い御部屋内。
それが王妃媽媽とウンスの重なる溜息で、なお一層湿っぽくなる。
内官長殿は困り果てたように迂達赤隊長へ目を遣り、隊長はそれを受けて万策尽きたとばかりに首を振る。

ヨン。お前の度を超えた頑固の所為で、ようやく見えかけた糸口も縺れの解き方がさっぱり判らぬ。
これ以上湿っぽい空気は御免だとは思うが、私の吐いた溜息がもう一つ加わる。

それは静かな雨音の中、思うた以上に坤成殿の御部屋内を暗くした。

 

 

 

 

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