2016再開祭 | 黄楊・肆

 

 

迂達赤の私室の中を見渡して、最後に様子を確かめる。
三和土に積んだ行李の内にも私物など入れてはいない。
寧ろこの後に始める宅の整理の方が骨が折れるだろう。

そしてタウンとコム。あの二人の次の勤め先も見つけねばならん。
夫婦者なのだ。離れ離れにするわけにも、次の勤め先が確実に決まる前に放り出すわけにもいかん。
間に立つ叔母上とマンボの顔もある。此方の身勝手で出て行けと、一言で勤めを解くなど有り得ん。

あの二人の務め振り。
タウンの料理、コムの力仕事、加えて二人の守りの腕があれば、都の貴族は我先に欲しがるだろう。
俺の名であれば幾らでも使うが良い。元迂達赤大護軍チェ・ヨンの邸で勤め上げたと。
その主の勝手な我儘で、勤め先を失うだけなのだ。
「大護軍」

扉から掛かる声に眸を上げる。
其処に立つチュンソクへと顎を上げると、奴は珍しく扉の左右の人の気配を確かめ静かに入って来る。
「何だ」
「は、あの」
「何を気にしてる」
「・・・王様ですら御人払いをされる程、重要なお話だったのでしょう」

その話か。
したくないと断れば、奴はそのまま部屋を出るだろう。
しかし辞すとなれば、まずチュンソクに言わずには進まない。
十年近く迂達赤の実務を担い、面倒を背負って来た男だ。
力の程は知っている。もちろん信頼もしている。
今までとその役目は然程変わらんとしても
「チュンソク」
「は」
「役目を辞す」
「・・・・・・・・・」

俺の声を聞いたこの男の顔こそ見物だった。
その声が腑に落ちるまで、相当な時間が掛かったのだろう。
「・・・・・・・・・・・・・・・は?」

奴は無言で俺の顔をまじまじと凝視し、暫しの後で声を絞り出した。

「梅雨が明け鴨緑江の水位が下がれば、北方が騒がしくなる。
国境隊との繋ぎを切らすな。手裏房、碧瀾渡のムソンともだ」
「大護軍」
「お前は王様のお側を離れるな。北方にはチョモとトクマンを」
「大護軍、待って下さい。俺達には無理です。ムソン殿や手裏房が、俺達の声を聞く相手とは思えません。
国境隊長やアン・ジェ殿にせよ禁軍や官軍にせよ、全員大護軍だからこそ喜んで、黙って従いて来るのですよ、御存知でしょう!」

チュンソクの尤もな指摘に舌打ちが出る。
そうだ。もっと早くこの男達を引き合わせておくべきだった。
王様は今後も俺と同じだけこいつに信を置いて下さるだろうか。
兵は全員今と何ら変わらず、アン・ジェとこいつに従うだろうか。

師叔とマンボがこいつと俺を同列に扱い、情報を流すとは思えん。
赤月隊に助けられて恩義を感じ、火薬を作るムソンも同じ事だろう。
そして鉄打ちの秘法を守る巴巽村。
あの鍛冶が俺にこれ程肩入れするのは、精根込めて隊長の為にと打った鬼剣を俺が引き継いだからだ。

今更それを悔いても遅い。今となっては此処から立て直すしかない。
捨て駒はない。今周囲に居る誰が、何が欠けても高麗に明日はない。

情報。武器。火薬。兵。その均衡があるから今まで金も集められた。
皇宮に巣食う古狸、力も志もなく代々高官の地位を継いでいる者らから。
誰一人国の為などとは思っていない。己の保身の為に金を差し出して来ただけの事。
王様の側に就くのが今は得策と見た。だからこそ、保身の対価として金を差し出す。
何故なら今、元も一目置く程の最強の軍が王様のお側を守るからだ。
目の上の瘤であった奇轍を退け、その庇護を受けた徳興君まで退けた迂達赤がいるからだ。
そして迂達赤の号令の許、直に飛び出す用意を整えている禁軍と官軍が控えているからだ。

赤月隊の生き残り。内功の遣い手。迂達赤大護軍という過分な肩書。
天人の医仙を娶った男。触れるもの全てを一刀両断にする鬼剣の主。
人目を避け影として生きて来た事で、流言飛語とも真実ともつかぬ噂の付き纏う男が、王様の民となった。
その男が元の派兵で大勝を収め名を挙げ、北方故領を次々奪還し、紅巾族を退け、双城総管府を陥落した。

誰も知らぬ。
北方の故領を奪還し続けたのは、あの方が無事に此処へ戻る為。
紅巾族を退けたのは、あの方がいつも倖せに笑える国を作る為。
双城を陥落したのは、成桂との蟠りに悩むあの方を安堵させる為。

政も絡む。状況にも左右される。勝敗は時の運でもある。
机上の武経七書でどれだけ熱心に兵法を学ぼうと、定石通りに行くわけがない事は、出陣した者であれば誰もが知っている。
今の俺が武神と称される程に圧倒的に強くなれた理由。
誰も知らず、誰も考えん。
真の高麗の戦神は俺でなく天から舞い降りたあの方だ。

あの方が傍に居る限り俺は絶対に負けない。
民の為、国の為、王様の為。
正直に白状すれば、それらは総て二の次だ。
死ぬまで護りたいあの方が居て、俺を慕う馬鹿共が居た。
目前で額に汗を浮かべ、どう俺を説得すべきか焦っている、この忠義な男も含めて。

これ以上誰一人死なせん。その為に勝ち続けるしかなかった。
ただそれだけの事だった。他には何の理由もなかった。
高麗という大きな池に俺という小石を投げた時、それがどんな波紋を描くか考えた事などなかった。
そして描いた波紋への返答が、昨日の王様の御提案ならば。

俺が目指す処、俺がこの手に掴みたいもの。
隠した上衣の袖口で、硬く拳を握り締める。

王様の目指される処、王様が望まれるもの。
その二つに隔たりがある以上、同じ処を目指して歩み、王様の民としてそれを手に入れる事は出来ん。

「何があったのですか、大護軍。王様は大護軍に一体何を」
「・・・良い」
チュンソクの声を遮って首を振る。
昨日王様にお答えした以上、他の奴に余計な無駄口を叩く気は無い。
「確り守れ」
「大護軍!」
「迂達赤はお前がいれば廻る」
「それだけでは済みません。今となっては迂達赤だけの問題ではないでしょう!」
「五衛はアン・ジェ。国境隊長。巴巽、ムソンと手裏房。話は通す」
「そんな無茶な。話して翻意するような者たちではないでしょう」
「士気が落ちぬよう気を配れ。鍛錬は今まで通り続けろ」

三和土から腰を上げ扉へ歩く俺を、チュンソクが慌てて追って来る。
「何があったのですか。これからどうするのですか、大護軍。医仙の事もあるでしょう!」
「あの方は関係ない。皇宮に絶対に必要な方だ。これからも王様と王妃媽媽にお仕えするだろう」
「そんな訳がないでしょう!大護軍が皇宮を出て、医仙だけが残るなど有り得ません」
「説得する」

チュンソクの言う通りだろう。あの方が素直に残るとは思い難い。
それでも残って頂かねば困る。
王様と王妃媽媽、御二人の御体と御心を健やかに守る為。
そしてあの方だけが知る、御二人の御子の御生誕の為。
そして誰よりこの国の民の体を思うあの方は、王様のお側に居らねば存分に医術を施す事も困難になる。
それが何よりあの方自身を苦しめる筈だ。

「邸は早晩引き払う」
「本気ですか」
「それまでは何かあれば来い」
「大護軍!!」

部屋扉を両掌で押し開き、静まり返った外廊下へと踏み出す。
雨雲のせいで薄暗い其処で、立ち聞きされていた気配もない。
伽藍洞の眼下の吹抜、雨中でも鍛錬をしている組があるのだろう。
湿った風と共に扉外から、テマンとトクマンの声が流れて来る。
「それでも迂達赤か!大護軍の兵か!」
「大護軍に恥をかかせてみろ、大護軍の足が飛ぶ前に俺が蹴り飛ばしてやるからな!」

奴らもいつの間にか育った。俺よりも兵を鍛えるのに相応しい。
この背を追って来た奴らを置いてでも、曲げられぬ道がある。
「大護軍」

足を止めた背後から掛かるチュンソクの声。吹抜けの扉から届く表の二人の声。
そしてその声にはい、と返す兵の奴らの声も聞こえている。

聞こえているから、これ以上此処には居られん。
吹抜の階を一足飛びに駆け降り、開け放った扉から表へ飛び出す。
「大護軍!」

翻る雨外套の肩を掴み損ねたチュンソクの、最後の声を聞きながら。

 

 

 

 

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