「で、仁川空港に行くはずが、気が付いたらここにいた」
カイくんは困ったみたいに窓の外を見た。
「大丈夫かな。俺はここに来たけど、あの人は」
「みんながくぐれるとは限らないのよ。その秘書さんは1人で江南に残ってるのかも」
私の声にカイくんの不思議そうな目が問いかける。
「私の時もそうだった。私と一緒に行こうとした男が、門に入れなかった事があったわ」
「その行けなかった奴はどうなったの?」
死んだとは言えなくて、私は思わず口を閉ざす。
キチョルの死因は分からない。検視したわけでも遺体確認したわけでもないし、帰ってきて聞いただけ。
最後に誘拐された時、確かに体調は悪そうだったけど、脈診することすら拒まれたし。
そんな余分な事を伝えて、わざわざカイくんをもっと不安にさせる必要もない。
「それも困るなあ。母さんはあの人をすごく責めると思うんだ。最後に会わなきゃ良かったよ。
でもそれはそれで、役立たずって責めるだろうしなあ・・・」
カイくんは途方に暮れるみたいに言った。
その時相変わらず窓の外を見たまま、あなたが静かに口を開いた。
「カイ」
「何?」
「もう寝め」
「・・・え?」
キチョルの件から話を逸らしたいのか。あなたの声に最初は思った。
でもそういう事でもないらしい。あなたは腕を組んだまま、視線だけカイくんの方を見た。
「声がおかしい」
あなたの指摘で初めて気が付いた。確かに少し鼻声っぽい。
江南での出来事を思い出したのか、それとも体調が悪いのか。
「カイくん、ちょっとごめんね」
断ってから額に手を当てても、今はまだ特に熱は感じない。
そのまま手首に指を当てて脈を取る。独特の浮脈を感じて
「うん、ちょっと風邪っぽいかも。寒い?」
尋ねてもカイくんは首を振る。
「今は別に、何でもないけどな」
「今日は頑張ったし、また明日話そう?あったかくして、今夜はゆっくり寝て」
「・・・うん、そうする。おやすみなさい」
カイくんは素直に立ち上がると私達に向かって軽く頭を下げて、静かに部屋を横切って行く。
「おやすみ、カイくん。また明日ね」
その声に最後に扉の前で手を振り返して、そのまま静かに部屋を出た。
*****
雪闇に閉ざされ、静まり返る夜更の兵舎。
胸にあなたを抱き、もう片腕を枕に天井から扉へ眸を移す。
廊下を近づく足音に耳を欹てる。
夜襲なら一つの訳がない。単独で乗り込むなら気配を殺す。
あれ程慌てて足音高く近寄るわけがない。
やがて届く慣れた気配。
腕の中のあなたを起こさぬよう静かに寝台から滑り降りる。
奴の拳が叩く前の扉を開き、声が掛かる前に廊下へと出る。
仁王立ちの姿を廊下に揺れる油灯の許で見つけ、足音の主チュンソクは決まり悪げに頭を下げた。
「何だ」
「カイが熱を出したようです」
だから早く寝めと言ったのに、何処までも面倒臭い男だな。
戦でもない限り、この見張りの兵舎に医官は置いていない。
かと云って深雪の夜半、町医者を呼びに行くのは無理だ。
「高いか」
「かなり酷いかと。歩哨が唸り声で気付いて、報せて来た程です」
掌で顔を拭う俺に遠慮してか、チュンソクは歯切れ悪く言う。
勝手に天門から出て来た男だ。王命で連れて来た訳でもない。
俺もチュンソクも奴を連れて戻れとの御言葉は承っていない。
それでも今、この兵舎での最高指揮権は俺にある。
俺が構うなと言えば兵舎内の全兵はその声に従う。
吐いた己の息が白煙になって廊下を流れる。
兵舎内ですらこれ程冷えている。
慣れぬ男が寒さで体を壊すのも詮無い事か。
まさか昼の襲撃で受けた刃に毒が塗ってあるとも思えん。
ならばもっと早く毒が回り、熱どころでは済まなかろう。
しかし医の心得など全くない俺にそれを判じる術もない。
畜生。だから近寄りたくなかった。嫌な勘ほどよく当たる。
「・・・・・・あの方を起こす」
「は」
踵を返し寝所へ戻る背の後ろ、奴は再び来た廊下を戻る。

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