2016 再開祭 | 智仁勇・中篇

 

 

昼までの講義を終え教本や筆入れを包んだ荷を手に教室の東屋を飛び出すと、我先に校門までの途を急ぐ。
鉄原の長く厳しい冬はやっと終わった。
もう昼の間には、分厚い外套も首巻も要らない。
それだけで走る体も心も、羽が生えたように軽く感じた。

日に日に暖かくなっていく。
陽射しを浴びた地面には菜花や蒲公英の黄色が溢れ、その隙間に蓬が群れ、土筆は空へ伸びていた。
よく目を凝らせばきっとその影に、蟻の黒い隊列がいるだろう。

胸が躍るような春が来た。風も光も、地面も、蓬も土筆も。
だから俺たちは大きな声を交わしながら走った。

「どうする、ヨン。一旦荷を置きに帰るか」

横を走る同窓のキルホが、肩からずり落ちそうな荷を担ぎ直しつつ聞いた。
「このまま持って行こう。帰ったら遅くなる」
「そうだな、じゃあこのまま行こう」

周囲の連れ立った朋らも口々にその声に頷いた。
そうだそうだ、そうしよう。急いで行こう。
そして見えて来た校門には、約束通りもう一人の朋が待っていた。

「シベーク!!」
大きく呼びながら手を振ると、門柱から顔を覗かせたシベクが手を振り返す。
「若様ぁ!」

その声に慌てて駆け寄ると、シベクの口を両手で塞いで首を振る。
「止めろって言ったろ!」
シベクは掌の下で口を動かし籠った声を上げ、そしてようやく大人しくなる。
そこでやっと掌をどかすと、その下の口は不満げに尖っていた。

「だって、そう呼ばなきゃ叱られます」
「何だそれ。誰に。馬鹿みたいだ」
「そう言ったって」
「おや、司憲府大司憲の御令息が下働きと御同行ですか」

その声に俺とシベクが同時に振り向いた。
書堂の東屋からさっきの俺達よりずっとのろのろと、三人の男らが歩いて来る姿が見えた。

先頭にいるのは先日鉄原に屋移りして来たアン・ドンソプ。
横の男たちはドンソプの子飼いか、いつの間にか腰巾着のように侍るようになった者らだった。

それでも年齢だけで言えば俺達よりも三つほど年嵩で、揉め事を起こさないよう俺は奴らに慎重に言った。
「下働きではありません」
「ほう。では何でしょう。私は周囲からそう聞いたが」
「家族です」
「家族」

わざとらしく目を瞠るアン・ドンソプの周囲で、二人の腰巾着が耳障りな笑い声を立てた。
「司憲府大司憲の御令息ともなると、御心の広い事だ」
「お言葉ですが」

額に立てた青筋と、怒りに燃えた肚裡がばれないように、俺は息を整えてから言った。
屋移りして来たばかりで諍いになれば、立場が弱いのはアンの方。
多勢に無勢で責めたりはしたくない。
おまけに年功序列の礼もある。たとえ尊敬出来るところなど何一つ見つからなくても。

「心が広いのはシベクの方です。俺の面倒を見てくれている」
「それでも私奴でしょう」
「私奴ではありません。我が家族です」

うららかな春の日に突然始まった言い合いに、周囲が息を呑む。
礼を失しない程度に正面の三人の男に向かう俺の袖を、シベクが遠慮がちに引いた。

「若様、もう良いですよ」
「良くない」
「でも」
「おお、ヨン。ドンソプも一緒か。どうした」

一歩踏み出た俺がもう一言足そうとしたところで、書堂の訓長様が東屋から近付いて来られた。
ドンソプは途端にその顔に作り笑顔を貼りつけると
「訓長様。今ヨンに、書堂のあれこれを尋ねておりました。まだ慣れぬもので」

そして俺に空々しく頭を下げて見せる。
「助かったよ、どうもありがとう。また何か判らなければ教えて欲しい」

それだけ残し、腰巾着と共に書堂の門を出て行く姿に
「・・・そうだったのか。ヨン、良い事をしたな」
訓長様は俺に頷いた。
周囲の朋らが騒めきながらドンソプの背を睨みつけているのに気付かぬのか。
それとも気付いて無視しておられるのか。

「お父上の役目の交代でまだ慣れぬのだろう。そなたもいずれは書堂を担う接長にと考えておるからな。
今から周囲の者を導くよう、いろいろ覚えておくのも良い」
「訓長様。私は」

接長になどなるつもりはないし、なれるとも思わない。
論語も大切だが、武経七書にも興味がある。
書堂や郷校で武経を教えてくれる事はない。それでは困ると抗議の声を上げかけると
「ああ、良い良い。またそのうち御父上を交えて話そう。皆も気をつけて帰るのだぞ」

訓長様は穏やかに仰ると、朋らにも声を掛けて門から表へ出て行かれた。

「・・・ふざけるな!」

胸糞悪いドンソプとの一件か、話を聞いて下さらぬ訓長様へか。
誰にともなく吐き捨てた俺の声に、居合わせた朋らは困ったように顔を見合わせた。

 

*****

 

「和尚様」
「おう、訓長殿ではないか。どうされた」

寺の本堂を覗き込んだ訓長は、勤行中の和尚の区切りを待ってから声を掛けた。

「暫し宜しいでしょうか」
「勿論だ。書堂で何かありましたかな」

本堂に漂う香煙が、春の光の中で白い濃淡の筋になる。
その佳い香を胸に吸い込み、訓長は苦笑を浮かべた。

「ええ。実はヨンと、ドンソプの件で」
「ヨンアがどうした」
「いえ。ヨンは問題ないのです。どうやらドンソプが、チェ家のシベクについて何か言ったようで」
「シベクとは、あのテグの息子かい」

和尚は床から腰を上げると、本堂の入口に端座した訓長へ近づいて行った。
「はい。ただヨンはあの通り気性ですから」
「ふむふむ」
「ドンソプの方が、世慣れていると申しますか・・・」

訓長がみなまで言う前に和尚は何かに気付いたか、それにゆっくり頷いた。
「訓長殿」
「はい、和尚様」
「誰か一人の味方をしてはならぬよ、訓長殿は書堂全体を教え導く御立場だからな」
「ええ・・・判ってはおりますが」
訓長は和尚の声に頷くと、低い声で言った。

「ただ、ヨンには我慢出来ぬでしょう。御父上もそうですが、家人を奴扱いされるのでは」
「ああ、そういう事かい」
和尚は溜息を吐くと、本堂の外の新緑に溢れた庭へ目を遣った。

「しかしウォンジク殿のような方が珍しいのだ。特に貴族ではな。ご自宅に居る者は皆家族だと。
大方の貴族にとり奴婢はあくまでも奴婢。自分の好きに売り買いできる牛馬程度にしか思わぬよ」
「確かにそうなのですが・・・」
「まあ、見ておいで。訓長殿」

和尚は何処か興味深げに、庭に向けた視線を訓長へ戻す。
「あの真直ぐな子がどうするか」
和尚の声に、訓長は曖昧に頷き返した。

 

 

 

 

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