2016 再開祭 | 桃李成蹊・12

 

 

「全部終わりました」

ヨンとしてのこの人の、最後の撮影の終わった夜。

おとといの夜お邪魔した大きなマンションのリビングで、社長さんとミンホさんと向き合って白いソファに座る。
私は持っていたバッグからプリントしたてのA3版の写真の入った封筒を取り出した。

その封筒をセンターテーブルの上、向かいのソファに座る2人に向かって滑らせる。
「これがヨンとして最後の撮影です。アンナさんには2人で田舎に帰るって伝えました。ふくれてたけど、分かってくれたと思います」
「見ても良いですか?」

ミンホさんはそう言うと、テーブルの封筒を手に取った。
「もちろん。カメラマンの今までのポートフォリオの写真は、削除をお願いしてます。
仕事を辞めるって伝えたら、最後は仕方ないなって言ってくれました。肖像権って素人にもあるんですねー」

私の言葉に社長さんは頷きながら、ミンホさんが手にしたまま黙って見つめる写真を横から覗き込む。
「良い写真ね」
驚いたような社長さんの声に
「それだけ?」

ミンホさんが初めて写真から目を上げて、横の社長さんを見た。
「良い写真、だけ?」
「何?良い写真じゃない。スタジオもライティングも、構図もそれにポージングも」
「・・・ライトに構図にポージング?」

ミンホさんは納得できないように繰り返すと写真を丁寧に封筒に入れ直して、テーブルの上をこっちに向けて返してくれた。
「あ、これは事務所で預かって下さいませんか。私が持ってて万が一失くしたらイヤだし。
顔を出してないことだけ、見せたかったんです」
「・・・判りました。お預かりします」

社長さんは頷いて最後の撮影の写真を封筒ごと、テーブル上の革表紙のファイルへ挟み込んだ。
ようやく少し楽になる。まず一歩、そして次は。
「明日からのスケジュールです、ミンホの」

社長さんが挟み込んだ封筒と入れ違いに取り出した1枚の紙。それを受け取って目を通す。
「もっとぎっしり詰まってるって、勝手に思ってました」

手渡された紙を興味深げに覗き込むこの人に、それを差し出す。
「時期的にちょうど海外のスケジュールやCM撮影が終わってたので、良かったんですけど」
「じゃあ海外前のお仕事は、広報大使のインタビューくらいですね?」

この人の手の中、5日後のそこに書いてあるスケジュールを指すと社長さんは頷いて
「はい。質問は事前にもらっているし、答もあります。それだけ暗記してもらえれば」

その声に横に座ったこの人が、黙ったままで息を吐く。
聞こえないような気遣いだろうけど、私の耳はキャッチするわよ。
あなたは大嫌いなの知ってる。心にもないことを話すのも、誰かの言葉を借りるのも。
でも仕方ない。分かって、って言うみたいに、その手に持ってる紙の影であなたの指先を握って揺らす。
その目が仕方なさそうに一度だけゆっくり瞬きするのを確かめて、やっと安心できる。

「では、これが原稿です。それから」
ファイルの中から別の紙束を取り出し、革表紙裏のポケットからUSBも抜いて、社長さんがテーブルの上に置いた。
「海外ロケのシーン分、読み合せの時の録音です。心配なのは現場で突然変更があった時なんですが。
こればかりはどんなドラマでも起きますし、何とも言えなくて」
「その時はその時です。頭がいい人だし、記憶力も抜群なので」

社長さんはその声に、やっぱりまだ不安そうに人差し指の爪を噛む。
「うちのスタッフたちがもちろん同行します。ただヨンさんとの入替わりを知るのはごく一部の数人です。
海外ロケまで、ミンホ役のヨンさんと接触するスタッフも最低限にします。
インタビュー以外はトレーニングの外出だけなので、このマンションもスタッフは出入り禁止に。
ただロケ期間はミンホが韓国に残るので、私は同行する事が出来ないので・・・ウンスさんが社長代行として、一緒に行って頂けませんか?」
「良いんですか?」
「もちろんです。フライトは同じクラス、ホテルは隣の部屋を取ります。
出来る限りヨンさんと一緒に行動して下さい。撮影現場も、オフ時間も。それには社長代行の肩書が一番自然なので。
もしも現地で何かあれば、実務はチーフマネージャーが」

旅行、出来るの?それも一緒に。
ワクワクした顔を隠しきれずに横を振り向けば、今度はさすがに少し安心した顔でこの人が頷き返す。
きっと理由は違うと思う。この人が安心した理由は一緒に旅行に行くからじゃなく、3歩の距離に私がいること。
そしてこの人は知らない。パスポートなんて意味も知らないだろうし、知ったら絶対許してくれるわけないし。
「ヨンア」
「はい」
「大丈夫!私、英語話せるから!」
拳を握りしめた私の宣言に、横のあなたは小さく首を傾げた。

 

*****

 

夜の足音は響く。そして息遣いも。
これ程深閑とした住処なら尚更だ。

部屋外を見渡せる大きな窓には桟がない。
居間に佇む俺の背後に近付く男の気配に
「何だ」

振り返らず声だけで尋ねると、その息遣いが笑うように緩んだ。
「少しだけ、良いですか」

答も聞かぬまま窓の横の俺に並ぶ姿が、眸の前の硝子に霞んで映る。
全く同じ背丈、全く同じ肩の線。並んで映したのが初めての所為か。
双子のようだと他人事のように、薄明りの中ぼんやり映る影を追う。

「俺、また謝らなきゃ」
「何を」
「無関係なあなたに犠牲を強いる事。仕事を辞めさせちゃった事。
嘘をつかせた事。どんな短い期間でもここに閉じ込めてしまう事」

この男はいつでもこうなのか。
人の事ばかりを考え、己の言葉は全て呑み、周囲に気を配り。
「あと・・・」

声を止めると考えるように、窓の影が唇を噛む。
「嫉妬した事」

どうやら僅かな本音が聞こえたらしいと、無言のまま窓越しにその目に問う。
奴は諦めたよう力無く微笑むと、そっくり同じ形の掌で目許に落ちる髪を掻き上げた。

 

 

 

 

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