2016再開祭 | 胸の蝶・拾伍

 

 

「ヨンア」
雨音の中に染み入るように、静かな声で名を呼ばれる。
「はい」
「帰ろうか」

ヒドは女と雨中に追い立てられた。
マンボの塩と豆の切れたという話も、胡散臭いものだ。
あれ程銭に煩い女が、商売に影響する飯の種を切らすのか。
もしも口実だとすれば。

雨を見ながら、そんな事を考えていた。

それ程までして、あの二人の縁を結びたいのか。
この方の腹案かそれともマンボか、そう考えていたから尚驚く。
この方ならば二人が戻るまで腰を据え、女に仔細を聞き出すと思っていたのに。
「奴らの帰りを待たぬのですか」
「・・・うん。もう私が口を出さなくても、きっと大丈夫」

雨だからだろうか。
その頬がいつもより硬く凍えて見えるのは。
その頬に浮かぶ笑みが作り物に見えるのは。

この掌で包んで温めてやりたくとも、二人きりの宅ではない。
抜け目ない奴らの集まる手裏房の酒楼で愚挙に及べば、後々何を言われるか。
「イムジャ」
「なぁに?」
「・・・何が」

マンボの起こした買い物騒ぎ。この方はあの時まだ厨にいた。
あの女と共に。それでもごく短い間だ。
此処にいる限り、この方に何かが起こる筈などない。
手裏房まで信用出来なくなれば世も末だ。市井の誰一人信用出来ん。

ヒド絡みとはいえ、あの女を信用してはおらん。
但し此処にいる限り、俺以外にも目や手がある。
万一この方に何か不穏な事を仕掛ければ、奴らも黙っておるまい。
そう思うからこそ二人きりでもと、眸だけで追っていたのに。
「あの女と」
「ヨンア」

何故そんなにも淋しそうに呼ぶんだ。外に振る秋雨より静かな声で。
何故そんなに赤い目をしているんだ。雨よりも透き通る涙を湛えて。
「許すのと許さないのは、どっちが簡単なのかしら」

笑おうとしてしくじって、赤い両の瞳の縁から滴が零れ落ちる。
零れる前に受け止め損ねたこの掌を握り、震える声を抑えつつ、あなたは俺に問い掛けた。

 

*****

 

あの時に、頭を下げた方の顔。今でもはっきりと憶えています。
追い掛ける背中の形は、あの時葬列を遠巻きにする人波の中、流れに逆らって遠くに離れて行った時と同じ。

私たちに好奇の目と罵声を浴びせた人波の中、誰にも迎合せずに、無言で、私たちを放っておいて下さった。
それがどれほど嬉しかったか、きっとヒド兄様には判りません。

それで良いんです。判って欲しいと思うわけではないんです。
ただ放っておかれたかったのです。慰められなくて良いから。
悪い事をしたのは知っているんです。それでも父だったから。

あの時黙って放っておいて下さったから、私はヒド兄様の為なら何でもします。何だってします。
訊いたりしません。ヒド兄様が訊かれたくないことは。話したりしません。ヒド兄様が言われたくないことは。
その為なら口を閉ざしている方が、私も幸せだから。
誰でも言いたくない、訊かれたくない、そんな秘密があるでしょう。
それでも黙って側にいれば、少しだけ軽くなるかもしれないから。
「ヒド兄様」

呼び掛けて、振り向いてくれなくても良いんです。ただ呼びたいんです。
「ヒド兄様」

しつこいくらいに呼んで、お伝えしたいんです。兄様を傷つける言葉ではなくて、ただこの心だけを。
誰に何を聞いても信じません。真実なんて誰にも判りません。
あの日ヒド兄様だけが責めなかった、それが私の真実だから。
一人になった淋しさは知っているから。だから私はヒド兄様の横にいたいです。

その為なら私は何でもします。何だってします。

手を伸ばして握ってしまった上衣の端に、兄様が驚いた顔で振り向いて、迷惑そうに顔をしかめても。
平気です。振り払われない限り、こうして何度だって握ります。

「女」
「パニャです、ヒド兄様」
「般若でも禅那でもどうでも良い」
「ヒド兄様、六度を御存じなのですね!」
「お前・・・」

呆れたような目で見られてしまっても、それでも構いません。
「豆と塩だ。黙ってついて来い」

歩き出す背に、言われた通り黙ってずっとついて行きたいです。
雨の中を走り出した騒々しい足音に、ヒド兄様が振り返って呆れた息を吐いても。

 

 

 

 

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1 個のコメント

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    ヒドは 頭を下げるしかできなかったのよね~
    後ろめたさもあるし
    でも パニャには
    それが嬉しかったのよね
    ほっとかない人たちが多すぎる
    恋したって言うより
    恩返しなのね
    どちらにしても照れくさい?

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