2016 再開祭 | 紫羅欄花・拾弐

 

 

窓から聞こえる鳥の声。木々の隙間から射し込む朝陽。
騒々しさと明るさに眠りを邪魔され眸を開ける。

今は何刻か、此処は何処か。時告鶏の声は無い。
光の中で瞬きをして思い出す。そうだ、典医寺だ。

冷たく重かった頭と体は軽く、悪心は去り汗は止まり、一番辛かった頃は過ぎたと息を吐く。
まさか昏倒するほど疲れているとは思いもしなかったが。

横たわる寝台の端、亜麻色の髪で半ば顔の隠れたこの方の小さな頭が載っている。
顔に落ちる柔らかな髪をこの指で静かに除け、閉じた長い睫毛を見る。

勢い込んでこの方を訪れ、伝えるべき事は何一つ伝えられず。
成した事と言えばこの方から奪った寝台にぶっ倒れただけだ。

身を起こして静かに寝台から滑り降り、寝台の脇の床に座り込んだ軽い体を抱きあげる。
目覚めた様子は無い。
その証に細い腕も脚も力は抜けたまま、抱いた俺の腕の隙間から力なく垂れる。

その体を寝台の上へ横たえ、此度は俺が窓からの光で温み始めた寝台脇の床へと座り込む。

横たわるこの方の細い指のすぐ先に、己の指先を置いてみる。
もし今その瞳が開いたら、この指先を握ってくれるだろうか。
それとも昨夜の続きのように、優しく残酷に払い除けるのか。

寝台の端に投げ出すよう、此度はこの頭をごろりと載せる。
そのまま其処からあなたの寝顔を確かめ、もう一度眸を閉じる。
次にこの眸が開いた時も、あなたは其処にいてくれるだろうか。

 

寝過ごした!

窓からの鳥の声に一瞬ヒヤッとしながら、ぱっちり目を開ける。
油断した。明け方まで確かめてたけど、呼吸も脈も正常だった。
一瞬気が抜けた時に寝ちゃったと、急いで体を起こす。
そこに見えた景色に本格的に寝ぼけてるのかと思って、窓からの明るい光で確かめながら、思わず何度もまばたきをする。

ううん、勘違いじゃない。
私はベッドに寝てて、病人のはずのこの人がベッドの横の床に座り込んだまま、頭だけベッドの端に乗せてる。
まるでためらうみたいに、遠慮がちに片手の指先だけベッドに掛けて。
何してるの?体調悪いんじゃないの?
そこで寝てるってことは一回起きて私をベッドに運んで、わざわざ自分は床で寝直したって事よね?

寝太郎のくせに。起きたんだったら、起こしてくれればいいじゃない。
そうしたら無理矢理にでもしっかりご飯を食べさせたのに。
そうしたら次は、話したい事が山ほどあったのに。

一晩の看病でぐちゃぐちゃに乱れて落ちてくる前髪を額に上げて、ベッドの横の小さな棚の引きだしを開けて、中に入ってる髪紐を取る。
そのまま前髪を結びながら、頭の中で考える。

まずは薬湯のオーダー。柴胡加竜骨牡蛎湯でいいのか、キム先生に相談。
朝ご飯・・・は食べられるかしら。起きられるかな。
温め直せるものを作りたいから、トギに台所を借りるお願い。

この人の休みは今日から何日?後で媽媽に往診の時に確認。今日の予定は?カンファレンスはなし。
急患がなければ相変わらずノンビリ。久々に晴れたから、干す薬草があるなら薬員のみんなをお手伝い。

それが終わったらタウンさんたちへの、そして叔母様と手裏房のみんなにお礼と連絡。
早めに帰れるかしら・・・っていうか、帰るもなにも、この人が起きて話し合わなきゃ始まらない。

よし!

両手で握りこぶしを作って一回気合を入れて、この人を起こさないように、反対側から息を殺してそろそろとベッドを下りる。
あの時代みたいなスプリングのきいたベッドじゃなくて、こういう時は良かったのかも。

うーん。予定も計画も大事だけど、それよりなにより、第一は。
ベッドを挟んでようやく大きく息を吐いて、向こう側のあの人を見る。

あの大きい体を、どうやってもう一回ベッドに戻すかってことよね。

 

深く寝入っている筈が、急に体が寒くなる。
慣れてしまったその冷たさに、心が先に騒ぎ出す。
その騒ぎ声に急き立てられるように、次にこの眸がふと開く。

見慣れぬ部屋の寝台が、見慣れぬ角度で眸に飛び込んで来る。
そして何より見たかったあの寝顔は、影も形も無い。

窓外の陽の高さ。それほど長くは寝込んでいない。
その証に敷布へと掌を伸ばせば、いまだに仄かな温みがある。

逃げたか。共に居たくなかったか。それとも・・・急な別用か。
あの方に金の輪ごと置き去りにされながら、まだそんな風に期待する。
それでもようやく掴まえた。
たとえ最後の答だとしても、何も告げずそして聞かずに終わらせる事は出来ん。
まして昨夜のように昏倒した、無様な姿で終わるなど。

袖の奥深くに掌を突っ込み、其処に落した軍牌を指先で確かめる。
牌の根付の紐に固く結わえた二つの輪が互いに触れ、鈴のような小さな音を立てる。

その音に励まされるように、俺は寝台脇の床から腰を上げた。

 

「ねえ、先生?」
典医寺の診察室。相変わらず早起きのキム先生は薬草をしまった棚に向き合って、こっちに背中を向けてる。
声を掛けるとびっくりしたみたいに背中越しに振り向いて、先生の目が丸くなる。

「・・・ウンス殿。随分早起きですね」
「おはよう、あのね、相談なんだけど」
駆け寄って小さく言うと、先生は不思議そうに首を傾げた。
「何故それ程小声で」
「ああ、あの人が部屋で寝てるの。それも床でね?」
「・・・チェ・ヨン殿ですか」

笑い出すのをこらえるみたいに口を歪めて、キム先生は部屋の裏扉をその視線で追う。
「そう。昨夜遅くに来たんだけど、脳貧血・・・血虚で倒れちゃったの。発汗とめまいもある。
体温も低くなってる。上腹部の腹筋も固い。理由は疲れと食欲不振と、睡眠不足と心痛。
処方だけど、柴胡加竜骨牡蛎湯でいい?」
「・・・どれが一番の原因ですか。それによっても処方も変わるかと」
「心痛だと思う」
「ならば宜しいかと。気滞ならば効くでしょう。腹が緩くなっているようであれば、大黄は控えめに」
「分かった。ありがとう」
「煎じましょうか」
「ほんとに?お願いしていい?でも、その前に」

私が言い淀むと、先生の傾げた首の角度が深くなった。
「どうされました」
「あの人を、まずベッ・・・寝台に、寝かせて欲しいんだけど」

その声にキム先生は、やっぱりこらえきれないって顔で吹き出した。

 

 

 

 

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