仁徳殿の入口から漂う気配に顔を上げる。
視線を流せばそれを受け、一拍遅れた侍医が頷き返す。
「来た」
「そのようですね」
小窓から僅かに射す光の中、冷たい石壁に囲まれた部屋を出で廊下を扉へ戻る。
「手摺はどうだ」
廊下に取り付けた手摺に指先で触れ、侍医は静かに頷いた。
「高さも取り付けも、問題はなさそうです」
「二度と入る事も無い」
「ええ。あとは往診の時程度でしょう」
「お前が来るな」
「・・・考えておきます」
鋼格子越しの光の薄暗い廊下を歩きながら低く笑い、侍医は囁くように声を落とす。
「惨めな姿をこの眼で見たいのか、歪んだ勝利に酔いたいのか。
それとも本当に動かないと日々確認したいのか、自分でも判らない」
口が裂けても詳細を伝える事は無い。
それでも王妃媽媽の事がある。
目先に迫る事ではなくとも、日々の積み重なるその先に。
全ての者が当然のように重ね、来ると疑わず、穏やかだと思い込んでいる、その日々を重ねる先に。
先は変えられるか。変えられんか。やってみねば判らん。
あの方が一人で抱え込まぬよう、せめてその荷が軽くなるよう。
あの遍照がシンドンとなるのか。それとも別人なのか。
今その心に企みがあるのか。それとも積み重ねる日々が変えるのか。
俺のこの手で何か出来るのか。それとも最後に地に斃れ負けるのか。
それでも。
「侍医」
「はい、チェ・ヨン殿」
「毒も自信があると言ったな」
「・・・よく覚えておいでですね」
「学べ」
「医官は死ぬまで勉学の日々です。勿論学び続けますが」
「頼む」
毒も薬も、医学を全て。あの方が心から笑う国を作る為に。
俺には手も足も出ん領分だ。其処はこいつに頼るしかない。
「チェ・ヨン殿」
殿の入口、佇んで鼠の到着を待つ法衣姿の遍照が、廊下を戻った俺達に向け頭を下げる。
その姿を認めた侍医が、此方に眼で問い掛ける。
「遍照だ。今後仁徳殿の雑役を任せる」
伝えたこの声に頷くと、侍医は遍照へと小さく目礼する。
「遍照、典医寺の侍医だ。罪人の主治医も兼ねている」
遍照は微笑んで侍医に向かい、静かに合掌を返す。
深雪の中を禁軍に囲まれて、あの時のように近付く足音。
「脚が弱っておいでですね」
耳聡く聞きつけた遍照が、雪の中の小さな影に小首を傾げる。
「ええ、長い間寝たきりでした」
俺が声を返す前に、侍医が告げて遍照を見遣る。
「遍照様は、随分と耳が良いようだ」
侍医の皮肉気な声にも動じずに、遍照は笑みを浮かべる。
「これからお世話をする方です。だから手摺があるのですか」
「はい。ただ残った腕もほとんど動きません。部屋内の移動は充分にお気を付けください」
「分かりました」
侍医と遍照は雪の上、もう目を交わす事も無く同じ方角に顔を向け、近付く警備の禁軍を見つめて声だけを交わす。
侍医の肚も分かる。気分が悪かろう。
ようやく追い詰めたあの男の周囲に、突然得体の知れん僧が現れた。
それでも言えん。知れば巻き込む。
あの日遍照は言った。敵を欺くにはまず味方から。
遍照、お前が敵に廻ろうと味方へ付こうと、その言葉は正しい。
「大護軍」
背後に率いる禁軍の警護の先頭、テマンが声を上げた。
*****
そのまま殿内に引き立てられ、徳興君は無表情のまま廊下を進む。
いつも煩い程に吐かれた無駄口も、もう一切聞こえる事は無い。
どんな思いだ。
一度入り、この生涯の獄を見せつけられて連れ出され、ほんの束の間外界の空気に触れた後に再び此処へぶち込まれ。
冷えた廊下に禁軍の軍沓の立てる重い音が響く。
廊下を先に進みながら、其処に切られた格子窓へ眸を投げる。
この先表に櫻が咲こうと、この廊下に光が溢れる事は無い。
この先表で蝉が啼こうと、この獄にその生の歌は響かない。
この先紅葉が色づこうと、高い窓からその色は愛でられん。
お前の季節は、最後に目にした今の冬景色で永遠に止まる。
これが俺の復讐の始まりだ。しかしこんなものでは終わらない。
俺とは比べ物にならぬ憤怒を抱き、王様が此処へいらっしゃる。
その時にこそ、お前は骨の髄から思い知るが良い。
寧ろ一息に死んでいた方がどれ程楽であったかを。
追及の手を緩める気など無い。
全てを吐くまで絶対に許さん。
そして吐けば、あとは死ぬまで此処で過ごせ。
お前が落ちるが早いか、元が早いか。我慢比べだ。
腕を失くそうと、その奸計の詰まった頭は残っている。
己の命と引換と知っている以上、あっさり自白はせん。
言葉の毒で幾度でも俺を、侍医を、王様を冒そうとするだろう。
引き延ばし、駆け引きを試し、裏から手を廻そうとするだろう。
その時の為に内からは禁軍で、外からは手裏房で、仕上げにはこの二重間者までを仕込んだのだ。
己と侍医と鋼格子の入口で立ち止まり、禁軍の警護に引き摺られ廊下を近寄る徳興君を冷静に見る男。
遍照。お前もその眼で見ておくが良い。
もしも真実あの方の抱えた秘密、天も怖れぬその男がお前なら。
間違えればこうなるという事を。己の奸計に溺れた者の最期を。
己の足で歩く事も赦されず、引き摺られ投げ出され、最後には陽も射し込まぬ獄に繋がれ死だけを夢見るようになる。
それでも自ら訪う事など赦さない。待っていれば何れ向こうが お前を捉えに訪れる。
「では、ナウリ」
佇んで待っていた廊下の最奥。
終の棲家の鋼格子まで息を切らしようやく辿り着いた徳興君へと声を掛け、出入り扉の脇へと避ける。
それを認めた侍医は穢れを避けるよう、俺より更に数歩下る。
そして脇を支えていた禁軍の監視が奴を離し逆側へと退くと、鋼格子の前で鼠と二人、正面から対峙する。
向かい合う俺達の脇の冷たい格子、その向こうの冷たい石壁、その壁の高い小窓から射す冷たく淡い真冬の光の中で。
「中へどうぞ」
「・・・満足か、チェ・ヨン」
向かい合う俺に向け、最後に鼠が確かめる。
蒼い顔色は光の加減か、それとも僅かに残る人間らしさの所為か。
「こうして私を閉じ込めて、満足か」
「とんでもない」
顎を小さく振り、奴へと半歩寄る。
「その首が下賜されるまでは」
そう囁き返して半歩戻り、先刻と同じ処で改めて向かい合う。
「無念です」
もう話は無い。そのまま禁軍の監視へと眸を遣り
「入れろ」
それだけ残し、兵の返答も聞かずに歩み出す。
次に見える時は王様と共に行う詮議。これからも先は長い。
来た廊下を入口へと戻るこの背に、侍医とテマンが従く。
短い廊下の中程で、背後に格子扉の閉まる重い音を聞く。
そして続いて、鋼の触れ合う音が響き渡る。
あの方とお前の居所を永遠に分かつ分厚い扉。
二度とあの方に仇成さぬよう、お前を繋ぐ鋼の錠。
その鈍く重い響きと共に、俺達の悪縁はようやく切れた。
この先遍照が、シンドンという男にならぬ限りは。
廊下の端にある、殿への出入りの鋼格子。
その向こうには冷たくとも白く明るい冬景色がある。
自由にこうして出て行く俺を、お前は其処から眺め続けるが良い。
既に立っている禁軍の守りの兵が廊下を進んだ俺達を認め、頭を下げ錠を解くと、その扉を押し開いた。

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ようやく 鼠を 収めるところに収め
ほっと…
出来ない。
次が まだある。
ウンスを守るためならば
進むしかないものね
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遍照=シンドン??
さらんさんだから、此度のお話をUPするときには、概に結末は決まっておられるんですよね(^^;
[不倶戴天]15でのヨンの心の叫び‥
…二度と立ち上がれぬ程に御心を引き裂かれた王様を。
悲しい声で腕の中、血を吐くよう泣き叫ぶあの方を。
そして最後まで判断を誤ったこの己自身の迷いを。
この言葉から、やはりさらんさんは史実に沿ってお話を進められるのかなぁ?と思ってる私ですが・・・
さらんさん❤
二次小説ですよね♪
二次小説ですよね♪←しつこい(笑)
早く結末が知りたいです(^^)
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さらんさんが不倶載天を掲載するにあたって前置きして下さった時にもしや(^_^;)と思っておりました。
歴史物を書くにあたっては避けては通れない史実…。
実はどうしても嫌で登場するドラマはスルーしてきました(T . T)
正直読みながらいよいよ出てくるのか?と思うと心が押し潰されそうな感じです(>_<)
でも読者の一人としては何と言ってもさらんさんの紡ぐ言葉に惹かれて、物語に惹かれてこちらにお邪魔させて頂いているのですから、さらんさんを信じてついて行くのみですね!
あの事件の時も心を救いあげて頂いたように、きっと最後にはストンと心が受け入れられるお話になる事でしょう(^o^)/
トークコンサート以降ミノヨンの声がはなれないご様子ですが、実は人の魂は幾つもに分裂して同じ時代同じ時に違う場所に存在する事も有ると言われていますから、その意欲を削がずに書きたいだけその思いに任せて書いて欲しいなぁーなんて身勝手な願いを持っておりますm(_ _)m
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さらんさん♥
いよいよ 遍照の仕事が始まるのですね…。
正面突破が好きで、嘘の嫌いなヨンは
重々承知のことだと思いますが
敵を欺くためとはいえ、味方も騙せるような
人物は、危険極まりなく…。
それでも、徳興君という卑劣な敵には
毒を以て毒を制するような
此度の方法しか無かったのですね。
ああ…侍医の操る毒を、この先
どこかで使わねばならぬ日が
来るのでしょうか。
ドキドキです。