不倶戴天 | 拾伍

 

 

「王様」
康安殿の入口で僅かに声を張る。
「迂達赤チェ・ヨン参りました」
すぐに部屋内から、王様の穏やかな声が届く。
「入りなさい」

内官によって開かれた扉の内、遍照を伴って踏み込む。
久方振りにお会いする王様は部屋内。
執務机の前で嬉し気に頷かれ、階をゆっくりとした足取りで降りて来られた。

康安殿の私室窓、美しい皇庭の雪景色の向こう。
中天から少し西へ傾き始めた冬の陽射しが燦々と射し込んでいた。
全てがいつもの冬の日だった。
凍える程寒く、眸を奪われる程美しく、雪は全ての音を吸い込み、王様が階を降りられる小さな足音すら聞こえる程に静かだった。

「久々だな、チェ・ヨン」
「は」
「此方の僧は」
「仁徳殿の任の為、某が水州より呼び寄せました」

そこで声を切り眸で促すと、奴は低く名乗った。
「初めて御目にかかります、王様。遍照と申します」
その声に鷹揚に頷かれた王様は、穏やかな目を遍照へ向けた。
「遍照とやら、委細はチェ・ヨンより聞き及んでおるか」
「はい、王様」
「殿内での事は一切他言無用。全てチェ・ヨンの指示に従え」
「はい、王様」
「余が出る訳にはいかぬ。チェ・ヨンの声が余の声と心得よ」
「はい、王様」

小さく笑みを浮かべた遍照に何の疑いも持たず、王様は頷いて返された。

その魅力的な声を、王様の前の堂々とした立居振舞を誤解していた。
仁徳殿の任を預け、あの男の首を落とした後はそのまま別れる。
僧籍を持たぬ隠れ身ならば褒美として王様へ願い出、僧籍を与える。

それで済むと思っていた。
まさか魅力的な笑顔の影に、あの鼠をも凌ぐ程の野心が隠れているとこの時に知っていたなら。
俺にとり不倶戴天の敵となる、皇宮に巣喰う獅子身中の虫となる事を知っていたなら、絶対に招き入れなどしなかった。

瞬時の迷いがその後を決める。

俺は誤ったのだ。招き入れるべきもの、排除すべきもの。
誤ったからこそ、最後にこの手で全てを清算せねばならなくなった。

二度と立ち上がれぬ程に御心を引き裂かれた王様を。
悲しい声で腕の中、血を吐くよう泣き叫ぶあの方を。
そして最後まで判断を誤ったこの己自身の迷いを。

何処までも透明な冬の陽射しの中、墨絵の如き静謐な雪景色の中。
其処に飛び散る赤い飛沫など、その時には想像すらつかなかった。

俺は誤ったのだ。
奇轍という蛇は死に、徳興君という鼠を捉え、己の策に溺れた。

この手が招き入れたのはその誰よりも強かな、遍照という蟲。
己の魅力をよく知り、獅子の腹を喰い破らんとする蛆だった。

 

*****

 

「早速だが、仁徳殿に入って欲しい」
王様への拝謁を終え、遍照と共に回廊を戻りながら声を掛ける。
「判りました」
「罪人が入るのは二日後だ」
「徳興君媽媽ですね」

言い直す遍照へ息を吐いて頷く。
「・・・ああ。お前が罪人と呼ぶわけにはいかんか」
「はい」
「忘れるな」

共に歩く回廊、抑えた己の声がすれ違う誰の耳にも届かぬよう細心の注意を払い、唇だけで低く呟く。
「露見すれば命が危うい」
「無論尽くしますよ、徳興君媽媽に」
何処まで本気か分からぬ声音で、横を歩む遍照は言った。

「善悪は関係ない。ご自身の信じる道を貫いた方ですから。チェ・ヨン殿に露見したのは、偏に媽媽の運が悪かったからだ。
同じ立場なら拙僧もそうする。世の図る善悪などではなく、己の信じる善の途を行きます。それが世間にどう受け止められようと。
うかうかと乗った王様が悪い。誘き出された王妃媽媽が運がない。
チェ・ヨン殿が吹き飛ばされなかったのは運が良かっただけだし、ウンス殿が今も生きているのは周囲の者の犠牲のおかげです」
「遍照」

回廊で足を止め低く唸ると、奴は道化たように言った。
「怖い顔をしないで下さい」
「お前」
「敵を欺くにはまず味方からです。いかがですか、私の演技は」

気付くべきだった。
冬の北風が粉雪を運ぶ回廊で、皇宮の全てが凍てつく灰色の空の下、向き合って奴の眼を覗き込んだその時に。

申し訳なさげな笑みを浮かべ頭を下げた奴に向け、回廊で大きく一歩寄る。
「憶えておけ」
「何をでしょう」
「確かに芝居を頼んだ。それでも俺の前で王様とあの方を愚弄すれば」

その整った顔の鼻先へ、己の顔を近づける。
「徳興君の前に俺が斬る」
「憶えておきます、チェ・ヨン殿」

遍照。奴は諸手を胸まで上げ、降参の姿勢でそう言った。
それでも俺は気付くべきだった。

この男は本気でそう思っているのだと。
誰を傷つける事も厭わず、信じる道を行く男と。
正しいと思うからこそ心を痛める事無く、どんな事も出来るのだと。
味方に出来れば誰よりも心強く、敵に回せば誰よりも厄介な男だと。
少年の如き無邪気な笑顔は、本心から思うからこそ浮かんでいると。

「生きても死んでも誰に迷惑を掛けるでもない。
この私にこうして道を与えて下さったチェ・ヨン殿とヒド殿を裏切る事は、絶対にありません」

凍る回廊で囁いたその言葉は真実だった。心から出た声だった。
だから確証を得る為にあれ程に時間が掛かったのだ。
奴は最後まで俺とヒドを裏切る事は絶対にしなかった。
俺とヒドだけは。

ただ守るという事を知らなかった。
守ると決めたなら、裏切らぬならその周囲の人間たちをも守るという、最も大切な事を知らなかった。
守るならばその人間だけでなくその人間が守る者をも腕に抱くという、あなたが俺に教えてくれた大切な事を、奴は知らなかった。

俺は正しい道に導かれた。あなたという温かい光で。
明るい方へ行けとこの背を押し、手を引いてくれるその小さな手で。
この男にはそれがなかった。
一人きりの道を自分だけを頼りに歩き、自分だけを信じ、自分の魅力だけを武器にして来た。

俺が奴のようになる事も有り得た。そして奴が俺のようになる事も。
もしも奴に、あの方と同じような温かい誰かがいたならば。

奴の心は最後まで灰色の空の下の凍る雪の中だった。
春の盛りの桜の下、美しい微笑みを浮かべていても。
夏の緑の木下闇、汗も浮かべず静かに歩いていても。
そして秋の紅葉を透かす光の下。
散り落ちるどの紅葉よりも赤い、朱殷の飛沫の中に微笑みながら斃れた時も。

 

 

 

 

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7 件のコメント

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    どうしてでしょう…
    ずうーっと慎重だったのに
    鼠に気をとられ過ぎてたのか、 
    遍照が何も持たないひとに見えたのか?
    ま、人って変わりますものね
    自分の思うようになれば
    どんどんどんどん 上を目指してしまう
    内攻も 武じゃなくって 策の方にまわってるのかしら
    ひとを操るの 上手い人いますもんね
    こわい こわいわ~
    ああああ~ もう 歯車が…
    (ノДT)

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    心が痛くて‥辛くて‥
    お話の続きを読むのが恐いです(–;)
    でも、読みたい!
    さらんさん
    どうか‥どうかヨンとウンス。
    王様や皆を不幸にしないでくださいね。お願いいたしますm(__)m
    ここ数日、新章を読み進めながら、[甘い夜]を読み、心を落ち着かせている私です(苦笑)

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    この男は多分あの人だとは思いますが、話からするとこの後本当に起きるんですか?
    ウンスは分からなかったんですか、凄く怖いです。
    バクバクします。

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    いつもながら、「不倶戴天」のお話に、どんどん引き込まれています。
    徳興君・キチョルよりも、高麗の王室を乱れさせた僧遍照、辛ドン。「信義」のドラマでは登場しませんでしたが、高麗の歴史上、本当に許せない男!
    王様の御心を引き裂くほど・・と、書かれているので、この後の話は、史実のように進むのでしょうか。
    王様の御心を、王妃様の御体と御心を、高麗の民の生活や心を、・・・全てを狂わす、恐ろしい男。
    初めてドラマの「信義」を観た後、ネットで、高麗の歴史をいろいろ調べました。当然、「朝鮮王朝」に代わるときが来るのですから、高麗王朝末期のころはかなり乱れたと思います。遍照の強かさにより、変わったように感じていました。
    「不倶戴天」というタイトル通り、私の心も憤りではち切れそうです。いつも、サラン…さんの話にのめり込むので、二次という小説の世界と現実の世界が混ざり、今、涙が出る思いです(こういう、自己中の読み手、ダメですね・・)。
    辛い話に進むのだと思いますが、ヨンとウンス(ウンスも悲しい思いをするようなので、それも胸が痛く)の二人の愛と絆で、少しでも良い方向に話が進んでいくことを願っています。
    王妃様を王様を、どうか、どうか、どうかお護りください。
    (サラン…さん、refreshしたら、また、お願いしますね!)

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    さらんさん…
    この先にとんでもない闇をもたらすのですね、
    この遍照は…。
    ああ…不吉です。
    さらんさんの描写がまた、いつにも増して
    お見事過ぎで、もう胸騒ぎしかしません(*_*)。
    頭もキレそうだし、自信もありそうだし
    信頼を得る術も心得ていそうな遍照。
    だからこそ、敵にしたときに
    誰よりも手ごわい相手になりそうです。
    登り始めたジェットコースターのように
    これからのお話は どんどん心拍数が
    あがっていくのでしょうね|д゚)。
    ああ…それでもいい!
    それでもいいから、じわじわ怖がらせて
    くださいませ!
    ←儂は“M”か…!!(-_-;)

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