不倶戴天 ｜ 拾参

「わざわざ雪の中、開京からいらしたのですか」
庭の雪の中で問う遍照に、俺達は頷いた。
「それにしてもチェ・ヨン殿が、噂に聞く大護軍だったとは。
何処かで伺った事のある名だと思ってはいたのですが」
「ああ」

低くそれだけ返す俺に、遍照は未だ不審げに太い眉を顰める。
「私の事は」
「全く知らん」
俺の返答に小さく噴き出すと、遍照はゆっくり頷いた。
「御用向きは何ですか」

どう答えれば良いか。
この男は内功遣いだ。但し己で気付いていないだろう。
気が整っていない。逆に言えば、この男も獅子身中の虫を飼っている。
内功という己の才覚、しかし正しく導く師を持たぬ故に、いつ暴発して自身に仇成そうと不思議ではない虫を。

しかしそれを丁寧に一から諭し、道を示し導く気はない。
ヒドにも恐らくないだろう。だからこそ以前出会った時、委細を確かめずそのままにして去った。

俺が望むのは二重間者。内功遣いか否かは問題ではない。
それを頼んで間違いのない者か否か。
頼むか。
その時は自覚のない内攻遣いを抱え込む事になる。
誤魔化すか。
その時にはこの二日半で、もう一度探す事になる。

瞬時の迷いがこの後を決める。

「お前に頼みたい事がある」
低い問い掛けに、遍照は
「どんな事ですか」
そう言って首を傾げた。

*****

深雪の中の寺の庭隅で簡単に状況を伝えた俺に、僧衣の咽喉元に顎先が触れる程俯いて聞いていた遍照がようやく顔を上げる。
「二重間者」
呟く低い掠れ声、庭を流れて消える息。
それを眸で追い頷き返す。
「ああ」
「相手は両手の動かぬ毒遣い、おまけに王様の叔父上で大逆罪の謀反人。
間者の振りで近付いて、且つ相手の一挙手一投足を全てチェ・ヨン殿やヒド殿にご報告するわけですか」

頭の巡りは早そうだ。
遍照は短く告げた言葉から状況を判じ、素早く正しい声を返している。
「万一の時には命の危険もありそうですね」
「ああ」
「しかし相手を弑すことは赦されないと」
「そうだ」
「そして相手に間者と露見する事も、絶対に許されない」
「正しく」
「面白そうですね。拙僧は構いません。演じれば良いのでしょう」

整い過ぎた貌に笑みを浮かべ、あっけらかんと遍照は言った。
「完全な二重間者を。相手に信用させ騙して味方の振りで探り、怪しい事は全てご報告すれば良い。
完全に演じる限り、命は保証される訳でしょう」

拍子抜けするほど明るい様子で。
もう少し悩むなり、深刻に受け止めるなりするかと思ったが。
「･･･判った。出来るだけ早く開京へ向かって欲しい」
「宜しければ今、共に参ります」

庭先で頷く遍照に、俺とヒドが顔を見合わせる。
「ヒド殿は御存知ですが、拙僧は生きるも死ぬも流れるも、誰に断りのいる立場でもありません。
和尚様にだけご挨拶してきます。ほんの少しだけこちらでお待ち頂けますか」
「･･･ああ」

頭を下げて、遍照の墨染衣が悠々と雪中を本堂へと戻って行く。
「ヒド」
「ああ」
雪の中の黒い衣が本堂の向こうへ消えてから、ようやく声を掛ける。
「内功遣いだ」
「らしいな」
「自覚が無い」
「･･･成程。そこまでは判らなかった」
「内気が滅茶苦茶だ。呼吸法すら出来ていない」

遍照の戻りを待ちつつ、光に溢れる雪の庭の片隅で短い声を交わす。
「師叔たちには言った方が良い。万一何かあれば、シウルやチホに累が及ぶかもしれん」
「ああ」
「今のテマナの方が余程整ってる」
「お主大事の一念で、死ぬ気で鍛錬しておる」
「そうか」
「守りたいそうだ。お主と女人を」

返す言葉が見つからず空へと眸を投げ上げる。
守りたいもの。それを持つ者だけが手に入れる力。
あの山で俺を蹴飛ばし噛み付いた小さな弟。
焼いた魚を共に喰い、真直ぐな声で隊長と呼んだ。

そしてようやく昏い井戸から出て、今目の前で俺の肚裡を読み、照れ臭そうに顔を顰める兄。
この顔をもう一度見る事無く、先に逝った隊長に伝えたい。

隊長、大丈夫です。隊長の言いつけを俺達家族は守ってる。
ヨンア、お前が家族を守れ。
新しい家族は増え続け、俺達は隊長の言いつけを守ってる。
そしてこれからも護り続ける。
無駄な血をこれ以上流さない為に。そして流した血と命を背負って。

「お待たせしました」

この男にも守りたい家族はいるのだろうか。
雪の中、遍照が小さな荷を肩に駆け戻る。
その姿を見ながら、俺達は頷いて歩き出す。

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