「大護軍!!」
皇居の大門をくぐってすぐに掛かる声。
足許に積もる深雪をものともせず此方へ駆け寄る、まだ遠く小さな姿に手を上げる。
「おう」
「お帰りなさい!」
あっという間に駆け寄ったテマンは、白い息の影からこの横の姿を見る。
目を外す事なく全身で探っている。匂いを、気配を。俺の敵か味方かを。
真直ぐな目で、ヒドに鍛えられた通りに息を整えて。
そのテマンに頷き
「遍照だ」
紹介するとテマンは遍照からまだ目を離さず、無言で小さく頭を下げた。
「此方はテマン。何かあれば皇宮内ではこいつに繋ぎを取れ。それ以外には一切伝える必要はない」
「判りました」
「大護軍」
テマンも今連れて来たこの僧が、件の二重間者と判っている。
そうだけ呼んで、俺の声を黙って待っている。
「王様に拝謁する。隊長に言っておけ」
「は、はい」
チュンソクの名すら伏せた俺に慌てて頷くと、テマンは雪の中を迂達赤兵舎へ向かい駆け出した。
俺は遍照を伴い、康安殿へと皇宮の回廊を渡る。
兵達の様子に変わった処はない。
すれ違う度に歩を止めて回廊の端へ除け、姿勢を正して頭を下げ、俺達が通り過ぎるのを待つ。
しかし尚宮達の視線と囁き声が気に掛かる。
確かに連れている遍照はこれだけ人目を惹く容貌だ。騒がしいのも無理はない。
唯一つ、予想外だったのはこの男の振舞いだ。
遍照はその声を聞いていながら尚宮達に向けて小さく笑うと、己の頭を下げて見せたのだ。
尚宮達の騒ぎも賑やかな声も十分に知っていながら、敢えてそれぞれの眼をちらと見つめるように。
これでは騒ぎが収まるわけもない。
尚宮達は頬を染め、通り過ぎる遍照の僧衣の後姿を眼で追いかけている。
この後遍照が仁徳殿から離れることはまず無い。それは許されん。
その任の為にのみ連れて来た男だ。
それでも眼を惹きつける程のこの容貌が、吉と出るか凶と出るか。
今は判らん。賽は投げられた。後は出た目に従うしか無かろう。
「ヨンア?!」
回廊の曲がり端、坤成殿の王妃媽媽の往診のお帰りか。
僅か半日離れただけで胸が痛い程に懐かしい声が届く。
「・・・戻りました」
この男の前でも、こうして逢った以上は仕方ない。
足を止め、そのまま鳶色の瞳を見つめて伝える。
「お帰り!」
そう言って伸びそうになった小さな手を視線で止める。
この眸で横の遍照を示し、ほんの微かに顎を振る。
この方は眸を追ってようやく気付き、細い指を戒めるように小さな拳に握り込んで隠す。
そして赤い唇を尖らせて細く息を吐き、気を取り直すように横の遍照へ明るく声を張り上げた。
「初めまして!」
その声に横の遍照が、今迄よりも一層魅力的な笑みを返す。
この男は自分の魅力をよく知っている。そしてその効果も。
俺のこの方にそれが利くのか否か、確かめるように小さく身を乗り出し、僅かに顔を俯かせその瞳を捉え、低く響く声でゆっくり名乗る。
「初めまして、遍照と申します」
「ユ・ウンスです」
この方は気負いも動揺も無く、ただ笑みながら頷いた。
そしてすぐに俺の眸を見つめ直し、心から嬉し気に問い掛ける。
「良かった、無事よね?ここにいるってことは今から王様のところ?」
その肩透しの応対に、拍子抜けしたように遍照が息を吐く。
「はい」
頷き返す俺にわざと白い頬を膨らませ、高い声が言い募る。
「家に帰ったらお説教だから。覚悟しといてね」
「・・・はい」
覚悟はしている。傷つけたのは俺だ。
何事もなく遍照がすんなり従いて来るとは限らなかった。
だからあなたの機嫌が直るまで、いくらでも聴く。
そして約束通り、共に眠ろう。どんな言い争いの後でも。
逢いたかったと必ず伝える。
あなたを傷つける言葉を吐いた事は詫びられずとも。
逢ってくれて、待っていると言ってくれて嬉しかったと。
そして明日の朝、もう一度朝陽の中で逢いたいと。
頷いた俺に機嫌を良くしたか、この方は花のように笑んだ。
見たかった笑顔。聞きたかった声。
もう一度こうして逢えたから、それだけで良い。
逢いたかった。本当に逢いたかった。
眠れたろうか。喰えただろうか。
それとも俺が空を駆けて帰りたかったほど、あなたも一人きりの夜と長い半日を待っていてくれたろうか。
息を詰まらせる程、折れるほど抱き締めたかった半分でも、俺の腕を、胸を恋しいと思ってくれたろうか。
「無事でしたか」
「みんないてくれたから大丈夫よ、マン」
「イムジャ」
他の奴らの名は出して欲しくない。
まだ完全に信用できると判らんこの僧の前で。
その代わり、あなたの事だけは護る。例え何が有ろうと。
被せるようにして続く声を止めると、この方は慌てて唇を噛んだ。
こうして堪えさせる。自由に話させてやる事すら出来ず。
「帰れば聞きます」
「うーん、じゃあご馳走作るわ。何か食べたいものある?」
「何でも」
「そういう張りあいのない事言うと、キュウリ出すわよ!」
「冬にはありません」
あなたがいてくれれば、元気に喰ってくれれば何を出されても良い。
この方はこの軽口を嬉しそうに聞くと我慢できぬよう小さな温かい手を伸ばし、硬く冷えた掌に触れて握る。
この目許が堪え切れずに綻んだのを確かめて悪戯な手をすぐに離し
「後でね、ヨンア。迎えに来てね!絶対よ!」
そう言って回廊を弾むように、典医寺の方へと戻っていく。
転ぶな。そんな風に高く足を上げて、見ている此方が怖い。
振り向いて手を振るな。真直ぐに脇目も振らず帰ってくれ。
横に並び同じくあの方の後姿を目で追っていた遍照が俺へと向き直り
「もしや、チェ・ヨン殿の奥方様ですか」
何処かからかう様な声音で問い掛けた。
「・・・ああ」
頷いて踵を返し再び歩き出す横に従う、遍照の眼が笑んでいた。
そうだ、俺はその微笑みを曲解していた。
二重間者を手に入れた。頭の巡りも悪くない。
己の魅力を知り有効に使う手管も知っている。
あの鼠の側に置き、特に何も無ければそれで良い。
此方と繋ぎを取り、無関係な者からは遠ざけると。
厄介な政絡みの後ろ盾も無く、王様に対抗するような力も無い。
迂達赤大護軍と知った上で俺に反抗するでも無く、開京行きを素早く判じて従いて来た。
内気の整わぬ内功遣い。知らぬならそのままにしておけば良い。
そう思っていた。
その整った美しい貌の下、どれ程強かな牙が隠されているかなど思い巡らせる事すらなく。

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