「チェ・ヨン、参りました」
康安殿の私室扉前、この声に穏やかな御声がすぐに戻る。
「入りなさい」
いつもの如く内官の手で開かれる扉。
其処をくぐれば階の上、執務机の前の穏やかな笑み。
窓の外、皇庭の松の向こうの雪景色。
長く厳しい高麗の冬、この方に仕え幾度この光景を眺めたか。
幾度聞こえるその御声に時には歯噛みし、時には心強く思い、時には心を殺し従ったか。
「王様」
幾度こうしてその御名を呼び、その竜顔を拝したか。
「どうした大護軍。顔色が優れぬ」
幾度階を降り卓へと向かわれる、その足音を耳にしたか。
「寒さの所為です」
「・・・鬼の霍乱か、珍しい事もある」
幾度その御口の端を下げる、不器用な笑みを目にしたか。
「座りなさい」
「は」
幾度こうしてその玉座へと座られる御姿に向き合ったか。
望んで就いた役では無かった。 望んで守った事など無かった。
王様。あなたに出会い、初めて己で王を選ぶ迄。
誰かの民になる。己の信と義を捧げる。 その道の為に力を尽くす。
それでもあの方が居なければ、そして戻って来なければ。
もし王様があの方を護るこの心を判って下さらなければ、きっ此処で王様と向き合ってはいない。
戦場で死んだか役目を辞したか、今頃は此処にはいない。
あの方だけが俺を縛りつけた。
この皇宮に、王様の横に。息を吹き込み心の臓を打たせ。
あの方だけが俺の理由だった。
生きて誓いを果たし、そして永遠に此処で待ち続けると。
イムジャ、あなたがいるから今日も生きている。
そしてあなたが居らねば全て諦めるなど容易い。
こんな心を知る俺は、もしも万一王妃媽媽を失われれば王様の御心がどう壊れるのか、手に取るように判る。
それを思うだけでも心の臓が凍りつく。
あの虚無、真昏い冬が来る。息する事すら面倒で眠る。
夢の中だけが倖せで、眸を開くのが億劫で呟き続ける。
早く来い。迎えに来てくれ。いつだ。いつまた逢える。
こうして諦め数えているのに。再び出逢えるその日を。
いや、それすら違う。
あの時は数えた。けれどあなたを失えば、もう数える事も無い。
この咽喉を搔き斬り、あなたが理由で打つ心の臓を止める事に何の躊躇いも無く、寧ろそれは最期の慶びだろう。
仮初の肉の器は滅びても、この魂が乞うている。
あの白く暖かな世界で、あなたに必ずまた逢える。
そして時の螺旋が運び続ける次の世で。
世の動きになど関わらぬ一介の武人だからそう出来る。
己の生き死にを、己の意思で決められる。
しかし天の定められたこの王様は、その自由すら無い。
その時どれ程酷くこの御心が壊れるのか。
これ程重い秘密を、あの方は今まで一人で抱いていた。
「王様」
「どうした」
「罪人を仁徳殿へと移しました」
「そうだったか、ご苦労であった」
「いえ」
小さく顎を振ると、王様の御目から一切の笑みが消える。
「これから詮議が始まる」
「は」
「寡人が出る」
「某もお供します」
「・・・一人で、と言っても無駄だな」
「は」
「そうだな」
王様は御目を細め、俺ではない何処かにその眼を当てられる。
「そなたはあの折の征東行省での、一連の奴と奇轍の動きを全て見ている」
「は」
「自ら王妃を救い出した、これ以上は無い程の証人だからな」
「は」
「チェ・ヨン」
「は」
「罪人は、簡単には吐かぬ」
「は」
「以前も申した。どれだけ時間が掛かっても構わぬ。いや寧ろ掛ければ良い。
その間に寡人は必ず、再び王妃との嗣子を頂く」
「・・・王様」
そうだ、以前もおっしゃった。
あの鼠を捉え、殺させて欲しいと懇願した俺に。
「嗣子があればもう罪人は用無しだ。そなたの、そして寡人の宿願も叶う」
この世の何より愛おしく哀しい、あの声が耳に蘇る。
─── 言える?
あの時あれほど悲しんだ王様と媽媽に、お子様は持つなって?
己が初めて選んだ王に、知りながら黙っているのは不敬か。
それとも投げた賽の目が決まるまで、己の力の全てを尽くすか。
「王様」
「うむ」
あなたが自らに課していた疑問ごと、これからは俺が負う。
おぶさっていろ、そして少しでも休め。
あなたがいつか望んだとおり、この背に負ってやりたいから。
瞬時の迷いがこの後を決める。
「御守り致します」
その低い声に、王様が御目を瞠られる。
「某が、医仙と共に」
王様と向かい合う椅子の上、肚に力を籠め背を伸ばす。
「どうかお健やかな御子を」
頭を下げもう一度戻して拝す御目に、嬉し気な笑みが浮かぶ。
「チェ・ヨン」
「は」
「きっと今のそなたなら判ってくれよう」
「・・・は」
「そして今なら、そなたの気持ちがより判る」
「王様」
「嗣子が欲しい。勿論だ。けれど母は王妃だ。それ以外は絶対無い」
「は」
「そして嗣子の顔も見たいが、それ以上に見たい」
其処までおっしゃり御声を切ると、王様は口端で笑み竜顔を下げる。
「ただ見たい、幸せな笑顔を。次は子を抱き、嬉しさで流れる涙を」
天が定めた唯一無二の王でいらっしゃろうと、世の動きに関わらぬ一介の武人であろうと。
愛する者への男の心はこうして変わらない。
「見せたいのだ、この世の全てを。子に恥じぬ世を、国を作りたい。
そして誰より、その母に見せたいのだ。その為に全てを尽くしたい」
「お作り下さい」
「そうだな」
「某はその為におります」
「チェ・ヨン」
「は」
幾度耳にしたか。この名を呼ぶその御声を。
けれど今聞くその御声はかつて聞いて来たいつよりも穏やかで深く、そして静かな決意に満ちた響きだった。
「信じている」
瞬時の迷いがこの後を決める。
「は」
この返答の声が王様との誓い。
己の全てを懸けて守る高麗武者の約束。
御目に真直ぐ頷くと、椅子から腰を上げて鬼剣を握り直す。
そして王様へと最後に顎を下げ、俺は康安殿を辞す為にその私室を扉へ向かい、大股で歩いて行った。
【 不倶戴天 ~ Fin ~ 】

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どうか 今の気持ちを忘れないでいて欲しいな~
そうすれば 大丈夫でしょ きっと。
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さらんさん♥
不倶戴天の脱稿、お疲れ様です。
黒ヨンの哀しさ、暗ヨンの不安が満ち溢れた
深いお話、確と拝読させて頂きました。
「瞬時の迷いがこの後を決める。」
「瞬時の迷いがこの後を決める。」
ああ…ヨンが選んだ言葉は
この先の王様と媽媽に、
ヨンとウンスに、そして全ての人たちに
どんな影響を及ぼすのでしょうか。
そんなハラハラドキドキも含め、
十分に堪能させて頂きました。
ありがとうございます♥
さらんさん♥
明日からまた新しい一週間ですね。
風邪など召しませんようにね(#^^#)
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含み残ってるー
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さらんさん、不倶戴天お疲れさまでした。
二人の婚礼、新婚旅行、そしてこれから先の未来へ。。。
さらんさんは以前に、不倶戴天で信義の二人のお話は終わりになる、と仰っていましたよね。
もう、二人の話は聞けないのでしょうか。
さらんさんのお話が大好きです。
さらんさんの選ぶ言葉が、さらんさんが見せてくれる風景が、言葉少ないヨンのその心が、大好きです。
どうかどうか、チェヨンの生まれ変わりミノのお話、読ませてください。
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Dear Sarang様、
Another great masterpiece, Sarang-ssi, Thanks!
I did, really, enjoyed your stories of "Faith" especially on the strong ties of Choi Young and Eun-soo! Your pieces are all so marvelous and so so beautiful!
A certain nasty thing happened to me recently, and I've decided to leave this Ameba faith secondary world. It is so sad that I cannot stay until the end of your works! Woo Woo..
I've been feeling as if having an open execution done at someone's blog.
I know it's kinda my fault, but still, I don't deserve being told off like a little girl. I won't be able to send or check messages and please forgive me leaving here like this.
wish you the best luck for the upcoming works, the beautiful "sarang world"
yours "faith"fully,
감사합니다
Sarah,
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さらんさん❤
【不倶戴天】お疲れさまでした!
ドキドキしながら、読ませていただきましたが最後に男前ヨンの
「お守り致します」
「某が、医仙と共に」の言葉に
癒されました。
ヨンの言葉を信じて、この後の
お話をお待ち致しております♪
此度も素晴らしいお話を
ありがとうございました❤