威風堂々 | 60

 

 

「イムジャ」

禁軍の兵舎を出でた足で向かった典医寺。
開いたままの治療棟の扉から覗き込む俺に、部屋内の目が集まる。
「ヨンア」
明るい声で返すあの方の、此方へ駆ける軽く小さな足音が響く。

「どうしたの?今日は来ないと思ってた」
「昼ですから」
「だから来てくれたの?忙しいでしょ、大丈夫?」
「ええ」
「ありがとう、嬉しい!」

嘘が吐けない方だから、それが本当だと判るから。
だから何度でも聴きたくなる。どれ程小さな声でも。
「・・・はい」

ただ止めて頂きたい、嬉しいと言った後に傍に寄るのは。
その細い腕を、俺の腹を抱くよう絡ませるのは。
そこまでするのは俺には無理だ。妻になって下さった後も。

思わず半歩退いた俺を、鳶色の眼が不思議そうに追う。
それに気付かぬふりをして
「飯を、喰いに行けますか」
誘うこの声に、白い頬が嬉し気に赤らんだ。

 

「マンボ、師叔」
踏み込んだ酒楼の門の奥、東屋から師叔が手を上げ怒鳴る。
「来たか」
「ああ」
頷いた俺に厨から飛び出したマンボが大声を張り上げる。
「ヨンア、お前は何でいつもつも」
「いつもいつも、何だ」

この方を連れ東屋まで進み、小さな姿が椅子へ腰を下ろしたのを確かめる。
次にその横に据えた椅子へ腰を下ろした俺に、マンボが鼻を鳴らす。
「どっかの誰かの婚儀のお蔭で、山ほど野菜やら何やら届いてね。忙しいったらありゃしないんだよ。何でこんな時に限って」
「ありがとうマンボ姐さん。ごめんなさい、忙しいのに」
「天女のせいの訳がないだろ。悪いのはお宅の無精者の旦那さ。ずっと姿を見せないと思ったら、忙しい時に限ってやって来る」

愚痴る割には、随分と嬉しそうだ。その笑顔に胸を撫で下ろし
「準備は問題ないな」
確かめる声にマンボは自信ありげに頷いた。
「任せときな。来た奴らは全員、たっぷり飲み食いしてもらうよ」
「師叔、マンボ」

低く抑えた声に、マンボの声が止まる。
「これは絶対に広めるな」
「何だ、勿体つけやがって」
素面であろうに、半分酔いを帯びたような師叔の声に首を振る。
「王様と王妃媽媽がいらっしゃる」

その声に、師叔とマンボが正真正銘息を呑んだ。
「俺達と同じ物を召し上がる事は恐らく無かろうが、十分気を付けてくれ」
「・・・ヨンア、正気か。王様だって?」

以前一度だけ王様をお連れした、この手裏房の東屋。
あの折の極秘の邂逅を思い出したのだろう。師叔の顔が引き攣れる。
「嘘だろヨンア、おめえ、大護軍がどんだけ偉いにしても」
「ばれる嘘など吐かん」
「ヨンア」
横のこの方が驚いたように、小さく鋭い声を上げる。
秘密にしておけるとばかり思っていらしたのだろう。そして明日、婚儀の式場で竜顔を拝し初めて知ると。

その小さな手を卓下で握り、続きそうなこの方の声を諌める。
申し訳ない。しかし残る時は本当に少ないのだ。そのままマンボと師叔へ向き合い、軽く頭を下げる。
「万一にも用意した酒や飯で何か無いよう。頼む」

二人に迷惑を掛けるなど真平だ。
何かあれば王様の大きな手駒、高麗の人と物の動き全てを知る手裏房を失う事にもなり兼ねん。
俺を王様の犬と呼び、隊長を弑した忠恵を赦す事のない師叔。
俺とて同じだ。あの腐った忠恵だけは死ぬまで王とは認めん。
俺を見るたび二言めには飯を喰ったかと怒鳴りつけるマンボ。
そうしてくれたからこそ、メヒを失った時も生きて来られた。

その二人に何かあれば。そしてヒドに、シウルにチホに何かあれば。
王様にとっても大切なこの手裏房の誰かに何かがあれば。
「ば、かにすんじゃないよ!」

・・・だから何故、毎回怒鳴るんだ。
突然の大声に面喰らい、座ったまま其処に立つマンボを見上げる。
「誰が喰おうが変わらないね。あたしが料理で失敗するとでも思ってんのかい、え?!」
「そうでは」
「だったら黙って明日を待ってな。目ん玉が飛び出る程美味い料理を、腹が破れる程喰わせてやるよ!」

さすが女は腹を据えるのが早い。堂々と言い切るマンボに頷き
「ああ、頼んだ」
笑みを含んだ声で伝えるとマンボは満足げに頷き返し
「今日はクッパもなしだよ。拵える暇がなかったからね。天女が腹を空かせないように、どっか余所で飯を喰って行きな」

そう言ってそのまま厨へと駆け戻って行く。
「・・・だそうです」
俺が横のこの方へ声を掛けると
「うーん、でも明日いっぱい食べれるからいいわ。今日はあきらめる」
この方は明るく笑んで、俺を見つめて頷いた。

「じゃあな、師叔」
最後にそう言ってこの方の手を握って立ちあがると、目の前の師叔は
「おう、明日な。巳の刻に」
未だ王様がお出ましになる事に合点が行かぬか。
心此処に在らずの様子で、そう言いつつ力なく手を振った。
「ああ、巳の刻に」

踵を返し、東屋を後に門をくぐり抜ける。
これで全てだ。やれることはした。最善の陣を敷いた。
あとは野となれ山となれ。蓋を開けてみねば分からん。

「さて」
大路に出て足を止め、この方の顔を覗き込む。
この方の明るい色の瞳が俺の眸を見つめ返す。
「何を召し上がりますか」
「・・・え?」

そんな事を尋ねられるとは思ってもみなかったのだろう。
王様の一件で、俺が小言を言うとでも思っておられたはずだ。
この方はその瞳を丸く開いた。

あなたに文句など言わん。どれ程伝えたかったか、伝えられずに逡巡されたかよく分かる。
あなたがどれ程この婚儀を大切に思って下さるか知っているから、今回だけは眸を瞑る。
但しこれきりだ。この後は二度と見逃せん。
この方をどれ程甘やかしたくとも。
一日中この膝に抱いていたくとも。
一晩中腕の中に閉じ込めたくとも。
どの目にも触れさせたくない掌中の珠でも。

それでもこの世で共に生きる限り、覚えて頂かねばならぬ事がある。
ただ、明日の夜までは。滞りなく婚儀の全てが終わるまでは。
「昼餉です。何を」
「うん、でもヨンア」
「だいえっとだけは勘弁して下さい」
「ああ、忘れてた。そんなことどうでもいいの。でもヨンア」

倖せだと、こんな時すら思う。名を呼んで下さるだけで。
父上と母上が下さった名を、この方が呼んで下さる事が。
「ウンスヤ」

だから呼びたい。
御義父上と御義母上があなたに授けて下さった、この世で一つきりの、何より美しい名を。
「何を、召し上がりますか」
「ヨンア」
「はい」
「・・・ヨンア、聞かないの?」
「はい」

大路の中で呼ばれる声が、雑踏を抜けこの耳に届く。
「ヨンア」
「はい」

私の名前は知ってる?ウンスっていうの。ユ・ウンス。

では、俺の事を、時にはヨンと呼んでくれますか。

命名、命に名を付ける。ユ・ウンス。あなたの名はあなたの命。
あなたの御両親がその命と共に、あなたに最初に下さった贈り物。

チェ・ヨン。俺の名は俺の命。名を懸けるとは即ち命を懸ける事。
最初から決まっていたのだと、思わず笑い出したくなる。
この名を懸け、天界のあの白い弥勒様の前で誓った時に。
泣きじゃくるこの方の退路を巧妙に断ち、天門の方へ誘いながら。

某、高麗武者チェ・ヨン。
某の名に懸け、終わればあなたを必ず無事にお返しします。

この名を懸けた。命を懸けた。
明日あなたと永遠の契りを結ぶため、あの時巡り逢う事が出来た。

「ウンスヤ」
「うんヨンア、どうしたの?」

呼んでくれ。そうして俺の眸の前で。それが俺の命そのものだ。
何処にも行かないと誓う。
二度と手離さないと誓う。
だからいつでも呼んでくれ。

これから夫婦になろうと。
あなたに似た娘を持とうと。
子が巣立ち、共白髪になろうと。

明日から始まる時の螺旋の中、いつの世で幾度巡り逢おうと。

ヨンア。

繰り返し、まるで今日の秋の空ほど澄んだ、高く甘いその声で。

 

 

 

 

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2 件のコメント

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    いろいろ心配事はあるけれど~
    明日だね 明日だ!
    ウンスは ヨンにおこられるかな~って
    心配してるけど ヨンはもうそんなこと ね。
    しあわせだ もっと幸せにしたやりたい
    そればっかよね~ (〃∇〃)
    あ~ はやく あしたにな~あれ

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    さらんさん❤︎
    お互いの名前を呼び合うことが、こんなにも嬉しいことだなんて、私も改めて気づきました。
    そこに大事な相手がいるからこそ、呼びかけることもでき、その声に応えてもくれ、振り向いてもくれるのだな…と。
    返ってくる声が、振り向いて笑ってくれる顔が、今ここにあるか否かが、自分の生活にどれほど大きいか…。
    ああ、私もヨンに呼ばれた~い!

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