私室の三和土へ腰を落ち着け、頭の中で指を折る。
飯、酒。マンボには頼んだ。タウンには今宵にでも頼もう。
十分な金子は渡してある。頼んでおけば後は問題ないはずだ。
余る分には構わん。足りぬのが困る。匙加減は二人に任せる。
参列者への連絡。チュンソクと師叔には伝えた。
兵達には伝わっておろう。市井の民や関彌、ムソンにも今日には報せが届くに違いない。
師叔も手裏房の長。今迄下手をうった例は無い。
あとは肝心の宅の護りだ。
宅で催す以上、あの方のみならず全ての参列者を守るのは俺の責。
どれ程集まるかすら知れぬ全員を、叔母上と迂達赤の手を借りずに守り切るなど無理だ。
事が起きれば一張羅の黒絹緞子で、鎧を着けず何処まで戦えるか。
畜生、いっそあの方が鎧を着けるのを許して下さらぬだろうか。
思わず舌打ちが出る。
同じ麒麟でも鎧の胸に在るか黒絹緞子に在るかで全く意味が違う。
万一攻め込まれ、絹を斬られる程度で済めば重畳。
しかしさすがに婚儀の席で斬り捨てられるわけにはいかん。
いや、もう婚儀の席だけではない。
この先何があろうと、あの方よりも先にこの首獲られるわけには。
三日後に俺があの方へと誓うのは、そういう言葉だ。
あなたより先には決して逝かぬ。この生涯懸け最後の息まで護る。
あなたも俺より先には決して逝くな。二度と一人にしないでくれ。
では共に逝くしか無い。全く道理に外れた無茶な誓いと願いだ。
今更ながらに自嘲の笑みが浮かぶ。正気の沙汰とは思えんと。しかし正気でなくて良い。
あの方とようやく出逢えて以来、俺が正気だった事など一度たりとて無かった気がする。
天門という古来の口伝の産物と思っていたものが開いた。
王命で其処へと踏み込み、不可思議な天界に迷い込んだ。
行燈や蝋燭の灯ではない、揺れない光を灯す雲突く家。
夜だというのに、白々とした光に照らされた鈍色の空。
道に溢れる馬のない馬車。見た事もない鉄で出来た馬。
身を隠す暗闇が、気配を感じて飛び込める木影がない。
ないない尽くしのあの天界で眸に映ったあの方を求めた。
あの方だけがあの世界の中で唯一つ、本物として映った。
泣き喚くその天界の小鳥を無理に掴んで引き摺り戻った。俺の世に、この高麗に。
逃げ出され、腹を刺され、心まで止まり、そしてまた戻った。
あの方を帰さなければ。それがこの名を懸けた約束だから。
それまであの方を護る。それがこの名を懸けた誓いだから。
必要としてくれ。俺を信じてくれ。父上から継いだ名をこの手で穢させないでくれ。
俺を見てくれ。そして呼んでくれ。ただ一言だけ、自分の為に生きろと言ってくれ。
あの方がその全てを与えて下さった時。
俺の為にだけ泣き、俺の為にだけ怒り、俺を笑わせようと必死でご自分の怖さを隠して笑い、お道化ていると知った時。
イムジャ、あなたは知らぬ。知らぬままで良い。
俺がどれ程にあなたを愛おしく大切に思ったか。
こんなもの要らぬ、さっさと止まれと一日一日数えていた心の臓の鼓動を、どれ程に嬉しく思ったか。
だから離れられない。離れては生きて行けない。
あなたほど俺を愛して下さる方を俺は知らない。
そしてあなたほど愛せる方に出逢った事がない。
だから俺の全てはあなたのものだ。
あなたが居たから戻って来た。あなたを護る為に。
あなたの息で繋いだ命で、その最後の息まで護る。
三日後の婚儀とは、交わす契りとは、俺にとってそういう意味だ。
あなたがいる限り、俺は生きると。いなくなれば未練など無いと。
だからイムジャ。
一人にしない。二度と離さない。あなたが求めて下さる限り。
一人にしないでくれ。いつでも呼んでくれ。必ず駆けて行く。
どれ程遠くとも、どれ程離れても、その声で呼んでくれ。
そこにいる?
俺は必ず答えよう。どれ程遠くからでも、離れていても。
此処に居ります。
俺の永遠の魂の片割れ。だから必ず応えてやる。
此処に居ります。あなたの傍に。
まずは仏の前で来世の契りを結ばぬままでは意味もない。
集う面々の前あの方の望む宣言をせぬままでは進まない。
必ず三歩の距離で護る事。
人の出入りに関わらず、あの方さえ護れればそれで良い。
そして集う民。どれ程来るかすら判らん奴らを守れれば。
その助人を待ちながら、窓の外の気配を探る。
時間がない。叔母上もチュンソクも早く来い。
待って待って待ち草臥れた。もうこれ以上は真平だ。
腰を下ろした三和土の床にこの身を長々と投げだす。
並べた匣に遮られた向こう、窓からの光に眸を閉じて、肚裡で繰り返す。
もう待つのにはうんざりだ。俺はあの丘で一生分待ったから。

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