夏暁【廿肆】 | 2015 summer request Finale

 

 

「チョ医官様」

あの夜の襲撃以来、以前より頻繁に顔を出すようになった
内医院のチョ医官様が、邸へと入って来るところだった。
門の横でその姿を見つけ、駆け寄って頭を下げる。
「ソヨン。大君媽媽は如何だ」
「お顔の色を拝見する程度ですが、ご体調は良いようです」
王族であり、男性であられる大君媽媽の御体に触れる事は、医女の私には許されていない。
出来るのは朝のご挨拶の折、その御顔色や爪色や御口の中の色をこっそり拝見して、御声の調子に耳を澄ませるくらいの事だ。

「何よりだ」
鷹揚に頷いたチョ医官様はそのまま大君媽媽の御部屋に向かう回廊を、付き添う薬員と共に歩き去って行った。

暦はもうじき秋になるのに、この夏はまだまだ暑い。
蝉は喧しく、陽射しは強い。
季節が移っても此処に居る限り、医女として仕事に没頭できる。
保母尚宮様の四診をし薬を煎じ、毎朝ご挨拶の折に大君媽媽の御様子を拝見して、その所見をこっそり書き残す事が出来る。

厭な宴席に出る事も、愛想笑いを強要されることも無い。
こうして医女としてだけ、生きて行くことが出来る。
そして何より、ソンジンがいつでも居てくれる。
あの襲撃の後今まで以上に神経を尖らせている、その張り詰めた心の糸だけが心配だ。

「ねえ、ソンジン」
媽媽の衛の隙、周囲に誰も居ないのを見計らい、庭先に立つソンジンに声を掛けてみる。
「ちょっと脈、診ても良い?」
私の小さな声にソンジンは首を振る。
「不要」
「うん、でも私の鍛錬に付き合うと思って」

ね?と顔を覗き込むと諦めたように大きく息を吐き、ソンジンは回廊の階に腰掛けて、腕貫を締めている紐を緩めた。
無言で差し出された腕、その手首に指先を当てる。
こうする度に感じる懐かしさも、胸を締め付ける想いも、初めての脈診の時から変わらない。

この指先で感じる、ソンジンの手首の皮一枚の下を流れる血が。
そしてその胸の下、心の臓の響きが伝えているような気がする。
忘れるな。忘れるな。
何を忘れるなというんだろう。
それとも私ではなく、ソンジン自身が言っているのだろうか。
忘れるな、忘れるな。ウンスを忘れるなと。

晋城大君媽媽には、心を開いているように見える。
ソンジンは大君媽媽の横、いつも影のように付き添っている。
襲撃以来ここに来なくなったパク・ウォンジョンとも、恐らく密書か何かで連絡を取り合っているはずだ。
大監の姿は見かけなくなったけれど、家人が出入りするのを幾度か目にしている。

それでもこの人の事だ。大切な目的を忘れる事はない。
きっと待っている。淋しい程に独りきり、門が開くのを。
開けばきっと行くだろう。必ずウンスに逢いに。
ここに全てを置いても、必ずくぐって行くだろう。

「・・・何だ」

その低い声に慌てて指先に意識を戻す。
「ううん。疲れも見えないし、実脈。しっかりしてるし、早くも遅くも無い。大丈夫」
伝えた私に小さく頷くと、緩めた指から自分の腕を引き抜いてソンジンは腕貫を着け直した。
「ソヨン」
腕貫の余り紐を白い歯で挟んだせいで、少し籠る声で呼ばれる。
「・・・なに?」
腕貫の紐を結び終え、ソンジンが息を吐く。
「患者の前で物思いに耽るな」
「え」

言い当てられて、胸が跳ねる。
「患者は唯でさえ不安だ。体調も優れず気も重い。其処で医官が茫としていれば、己が悪い病かと尚更に心配になる」
言われればその通りだ。反論できずに私は頷いた。
「うん」
「たとえ何があっても気持ちは見せるな。手の施しようのない病でない限り笑っていろ。
それを見るだけで安堵する患者がいる」
ソンジンは階に下していた腰を上げた。

「病は気から、と言うだろう」

そう言って庭先に再び立ったソンジンに頷く。そうだ。その通り。
医術については素人であるはずのソンジンからまた教えられる。
医女としてだけ生きていけると思っているのに、倖せな筈なのに、こうしてこの男に触れる時だけ心が乱れる。

こうして見抜かれるようではまだまだ駄目だ。
それともやはり、この男は占師なのだろうか。
この心の中なんて見通しているのだろうか。
見通していながら無視しているのだろうか。
私の聞きたい答を返す事が、決して無いから。
私は唇を噛んで俯いた。
「・・・うん」
悔しい。指摘されたことでなく、自分の気持ちが厭わしい。
ソンジンの言う通りだと分かる。己の言う通りにならないその気持ちが厄介だ。

こんな顔をしていては駄目なんだ。笑わなければならない。
一つ息をして私は笑った。宴席で強いられる愛想笑いとは違う。
安心させるために。心配をかけないために。

ソンジンは貼りつけたその笑顔をちらりと横目で眇め見た。
そして首を振ると、呆れたように呟いた。
「ソヨン」
「何」
「お前なあ」

言葉を切ると、ソンジンが横顔で笑んだ。
柔らかく緩んだ黒い目許に思わず見入る。
「患者の前でと言ったろう」

低い声で言うと、ソンジンの右手が伸びる。
その大きな掌がこの頭の上に静かに乗る。
まるで小さな子にするように髪を静かに撫でる手に驚き、私は黙って成すがままにされる。
分けて撫でつけきちんと纏めた髪が、指の動きに乱される。
「俺の前で無理するな」

その指に乱れる髪を気にする余裕はない。
その声でとうに気持ちを乱されているから。

 

 

 

 

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1 個のコメント

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    さらんさん
    今までのお話より、今回のソンジンは、とても人間くさくて⁈素敵です。
    頭脳明晰、武芸達人で無愛想なソンジンが、何気無く見せる優しさに、くらっとしてしまいます!
    ものすごく好きなタイプです~。

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