「ヨンア」
終の夏、雨の日が増え始めている。
降るたびに暑気を洗い流し、翌の晴れには空気が澄んでいく。
盛夏の頃の驟雨とは違う。絹糸のような銀の細く柔らかい雨。
その雨音を縫うように俺のこの方の声が、落ちる雨より細く静かに届く。
いつもは明るい声が沈んでいるのは、この銀雨の所為だけか。
「はい」
その声に隠れた息すら聞き漏らさぬよう、この両耳を欹てる。
「明日ね、徳興君の診察する」
言い辛い事を一息で吐き出し、この方は眉を下げて無理に笑む。
「約束、したから。言うって約束したから」
「ありがとうございます」
小さく顎を下げて伝えると、その眉が曇る。
「でもほんとに平気よ。ヨンアも忙しいんだし、私と他の皆で」
「参ります」
「だって」
「イムジャ」
俺の声にこの方が紅い唇を閉じる。
「徳興君は王族です。謀反人の王族の治療に迂達赤が付き添う。
何処もおかしなところはない」
言いながら己で腹を抱え、笑い出したいほどだ。
正しく何処にも齟齬がない。
徳興君。お前に自由など与えられることは、二度とない。
俺のこの方を毛の先程も傷つける機会は、二度と来ない。
今後この方がお前に寄る度、横には必ず俺が控えている。
万一妙な気を起こせば、斬り捨てた後に言い訳を考える。
そしてキム侍医。奴の翻意だけが一抹の不安だ。
どれ程の憎悪を、恨を抱えて来たかを知る故に。
腕だけを持って行った、その言の葉を信じたい。
信じたくともそれに足る信頼は互いに未だない。
俺以外の手で鼠を弑する事は、絶対に赦さない。
「ヨンア」
先程よりほんの少し明るさを増した柔らかい呼び声が、耳を震わせる。
眸を上げると同時に小さな白い手が頬にかかる。
雨で冷えた頬に、その手の温みが染み入るように広がる。
「私ね、あなたの歯並びも大好き」
「は」
覗き込む鳶色の瞳の中、銀雨を背景に己の姿が映る。
「歯並びも、好きなんだってば」
「・・・はい」
細い指が、引き結んだこの唇をゆっくりと割る。
「だからそんなに歯を食いしばっちゃダメ。歯並び悪くなる。
あー、って言ってみて」
割った唇の間から歯を確かめるように、この方が俺の口を笑いながら覗き込む。
「せーの、あー」
「あ」
渋々丸く口を開けると中を見て、この方は笑って頷いた。
「よくできました。思い出してね、あなたの歯並びも好きなの。
歯並び悪くなったら、キスしたくなくなるかも」
そう言って細い指が、この唇の戒めを解く。
きす、したくなくなる。
結局きすが何なのか、巴巽村で答は頂けなかった。
しかしこの方が誤りだと正さぬ限り、接吻で正しい筈だ。
それをしたくなくなるとは、婚儀前に酷な宣告だろう。
戸惑う俺にこの方は、真面目な顔で頷いた。
「困るでしょ?だったら、歯を食いしばっちゃダメ」
悪循環なのよ。
あなたの唇から指を離して、私は笑ってみせる。
ストレスから歯を食いしばる。歯並びが悪くなる。
咀嚼に影響が出る。消化が悪くなって、内臓に影響が出る。
ただでさえ過度なストレスを受けてる内臓のダメージは大きい。
この時代、審美歯科はもちろん歯科自体も治療技術は殆どない。
そこで歯が悪くなるイコール疾病に直結だもの。まずは予防よね。
手作りの歯磨き粉は使ってる。塩入りのぬるま湯でうがいもしてる。歯間ブラシの代わりに柳の楊枝も使ってる。
口腔の清浄環境は問題ない筈だから、あとは歯並び。
あんな男のせいであなたがストレス感じて、歯ぎしりするなんて。
あなたが心配してくれてる事は、イヤっていうほど分かる。
2回も毒を盛られた私を、黙って徳興君に近付けるわけない。
たとえどんなに大丈夫だって説明しても、聞いてくれない。
それならいっそ一回自分の目で確かめてもらった方がいい。
大丈夫なんだなって、心から納得してもらった方がいい。
今後毎回、徳興君のリハビリに付き合わせないためにも。
あんな馬鹿男に構って、あなたの大切な時間を無駄にするなんてゴメンだわ。
それなら見て、安心してゆっくりしてほしい。
ストレスフリーの人生って難しいわ。ましてこの人の環境じゃほんとに難しい。
だけど諦めたりしない。少しでも減らしたい。
あなたの心の重圧も、肩に乗っけた荷物も。
2人で分け合ったら少しは軽くなるかもしれないじゃない?
昔から言ったものね。楽しみは二倍に、悲しみは半分に。
そのために私がここにいるんだから少しは頼ってほしい。あとはストレスも半分に。
うーん。私自身がこの人のストレスにならないように、どうにか工夫しなくちゃね。
降り続く小雨の中、寒いって言ったら膝に抱っこしてくれるかしら。
「ヨンア」
小さく声を掛けると、その黒い瞳がこっちを向いた。
「ちょっと肌寒くない?」
私の声にふ、と息を吐いて、この人が両腕を広げた。
ほんとは私が膝に乗せて抱き締めたいけど、そんな事したら潰れちゃう。

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