遑【弐】 | 2015 summer request・vacation(ドチver)

 

 

大君媽媽に従いて渡った元の宮。
大君媽媽は江陵宮となった元の宮の一つにて、御齢十からの歳月をお過ごしになられた。
春が行き、夏が過ぎ、秋が来て冬になり、そして二度目の秋の始め。

「ドチヤ」

宮の庭に夜の帳が下りた後も、その夜だけは特別だった。
宮の外、貴族たちの館の楼閣は煌びやかな灯に溢れ、酒楼からの華やかな伽倻琴や玄琴の響きが満月の浮かぶ空へ溶けて行く。
市井には笙簧や杖鼓の音が溢れ、大路には山車が練り歩き、人々は笑いさざめき、手足で拍子をとりながらその後を漫ろ歩く。
あちこちに立った夜市の店頭には夜目に一層華やかな品が並び、多くの人が足を止め、それらを手に取り眺めている。

その中を私と数人の護衛に囲まれ、大君媽媽は楽し気に大路をゆっくりと歩いていらっしゃった。

「はい、大君媽媽」
いつもの癖でお呼びすると、媽媽は人差し指を御口の前に立て
「しぃ」
そうおっしゃって、素早く左右に御目を走らせた。
「も、申し訳ありません、公子様!」
私が深く頭を下げると周囲の目が御自身に向かぬ事を確かめられ、大君媽媽はにこやかに笑まれ
「うん。大丈夫だ」

そしてまた楽し気に大路をお進みになられる。こんな愚かな失敗すら、叱責もされぬ。
幼い大君媽媽であられるのに御心の広さや素養は、すでにどんな聖君に勝るとも劣らぬ素晴らしさだ。

「楽しいな、ドチヤ」
「さようでございますね、て・・・公子様」
私達の高麗語を解さぬ元の護衛の供たちは、無言のままで大君媽媽の後ろに従いて歩いてくる。
夜が更けるにつれ大路の人波は増えて行くばかり。
その波に小さな大君媽媽を攫われぬよう、私は護衛の者たちに
「公子様を、しっかりと守りなさい」

元の言葉で伝えると、供たちが大君媽媽へと一歩ずつ寄る。
四方を衛に固められ、その中央を媽媽がどうにか進まれる。
その時だった。
「ドチヤ」
媽媽の強張った御声に、私は足を止める。
そしてその御目の先を追いかけ息を呑む。

空から降る月の光と、家々に照らされた提灯の灯の下。
美しい綾織の絹の衣の着た媽媽と同じ年頃の娘が薄汚い男の腕に抱えられ、山車に無理矢理担ぎ込まれるのが見える。
周囲の者たちは気にもしないのか、他に目を奪われているのか、特に騒ぎもせず何事も無いように通り過ぎて行く。
「ドチヤ」
「・・・はい、て・・・公子様」
情けないほど震える私の声とは反対に、大君媽媽は確りした御声で即座におっしゃる。

「其処の山車を、一台貰い受けよ」
「・・・え」
「急ぎなさい」
大君媽媽は確かな御声で御命を下さった。こんな時だと言うのに瞬時の御英断には感服するしかない。
矢張りこの方はすでに偉大な聖君の器をお持ちなのだ。
人波の賑やかさにも紛れる事のない大君媽媽の凛とした御声に、私は慌てて懐から金子入りの袋を引き摺り出した。
「あの山車が動き出したら、すぐにこの山車をぶつけるのだ。絶対に停めなさい」

大君媽媽のおっしゃった通り、山車を引く男に元の言葉で伝える。
男の脇に衛の一人を付け、残りの衛は大君媽媽の脇、件の山車を物陰からじっと見つめる。

娘を乗せたあの山車が車輪を揺らして動き出す。
大君媽媽が私に頷き、私が衛の者たちに指で合図すると、一行はその山車に添い、大路を再び歩き始める。

私が金を払った山車を引く男に頷いて娘の乗る山車を指すと、男は勢い良く山車を引いて走り出し娘の山車に横から突っ込んだ。

娘の山車を引く人足と、あの男の間で小競り合いが始まる。
祭の往来で始まった喧嘩に、周囲に人垣ができる。
その隙に大君媽媽は山車の乗り口へと回り込み、そこから腕を伸ばされてあの娘の手の縄を解くと、
「行こう」
そうおっしゃりながら、娘の手を取り山車から降ろす。
「一緒に行ってあげる」

御声と同時に娘の手を引き身軽に人波の中へと走り出した大君媽媽の御姿に、私は慌ててその御背を追った。

 

人波に押され、それを掻き分けながら大君媽媽に追いついたのは、月の下をゆく黒い川に掛かる橋の袂だった。
流れの脇の河原に佇む大君媽媽の御姿、その脇に手を握られたまま立ち尽くす少女の姿を見つけた私は、慌ててそこへ走り寄った。
こうして近くで見ると大層可愛らしく、品に溢れた少女だ。
お召し物から見ても身分の高い家の子女なのだろう。
月光に浮かぶ整った顔立ちは、何処かで見かけたような気もする。

「家は、何処か」
そうおっしゃった媽媽の御声を元の言葉でお伝えすると、少女は幼いながら勝気そうな目をきっと上げて答えた。
「いっそ殺すがよい」

大君媽媽はその声を聞き、大層愉快気に笑われ始めた。
「家は何処か、分かるか」

それを伝えると少女は大きな目で河原を、そして橋を、橋の上の通りを見渡しながら、こくりと頷いた。
その少女に安堵されたように、媽媽が再び問われる。
「歩いて行ける処か」
私の通訳の声に、少女はもう一度、こくりと頷いた。

「良かった。私が前を行く。この近くをぐるりと歩くから、あなたは離れて歩くと良い。
家が見つかったなら、そのまま帰れば良い。もし何かあれば、叫べばすぐに駆けて行って助けてあげる。
何も声なく姿が消えれば、帰ったと思うから」

お優しい大君媽媽の御言葉を少女へと伝えると、媽媽は先に立ち、白い月の光の下、ゆっくりと御歩きになる。
道を戻り、貴族の館辺りを中心に賑やかな通りを大君媽媽は歩かれる。

途中、後ろの少女へと、周囲からわらわらと人が集まって来た。やはり相当高い身分のご息女だったのだろう。
振り向かぬままにおみ足を進める媽媽を横からそっと拝見すると、媽媽は後ろの気配にそっと微笑みながら小さくおっしゃった。
「良かった。見つかったのだね。これで無事に帰れる」
そのお優しい御言葉に、私は微笑んで頷き返した。

「大・・・公子様のご明察の賜物です。故にこれ程早く見つかりました」
「ドチは、私が何をしても褒め過ぎるね」
大君媽媽は嬉し気におっしゃり、私をからかわれた。

 

そんな媽媽が変わられたのはいつの頃からだったろうか。
少しづつ、小さい変化が積み重なっていた。

大君媽媽が元にいらして五度目の年。媽媽の兄君、忠惠王が逝去された。
暴政に怒り心頭の元の皇帝に、流刑地へ召喚される途中で。

順から行けば大君媽媽が次の王になられるはずだった。
高麗でも、そして元にいる大君媽媽の供たちも、誰もがそう信じ疑いすらしなかった。

しかし逝去した王の御乱心ぶり、荒淫ぶりに手を焼いていた元は、幼王の方がまだしも御しやすいと思ったのだろうか。
それとも元の公主から生まれた方は、高麗人の御母上を持つ大君媽媽より上だとでも思ったのだろうか。

王の不慮の逝去で大君媽媽に代わり媽媽の甥にあたる昕様、急逝された前王のご嫡男が齢七つにして元より封冊を受け、二十九代王として封ぜられた。

「・・・ドチヤ」
「はい、大君媽媽」
兄王君の逝去も、媽媽の御心を深く傷つけられたのだろう。
そしてその逝去後も御自身がこの元に在り、次期王として封冊を受けなかった事にも、御心は乱れたのだろう。
「私は、どうなるのだろう」
「・・・大君媽媽」
「次期王だから、禿魯花に行かされると思っていた。だからこそこの宮の中で、元の者たちからの蔑みにも耐えて来た」

大君媽媽は小さな御声でおっしゃって、その瞳でじっと窓の外の高く青い空を見つめられた。
「元の公子たちが私より四書五経を論じられなくとも、二十四孝の講義を受けなくとも、鹿や鴨の猟場で私の獲物を奪って行っても、何も言わなかった」
「大君媽媽」
「私の描いた馬上絵を、自分の描いたものだと言いふらしても」
「・・・媽媽」
「私には誰からの便りも無く、昕にだけ故郷からの便りがあると、どんなにからかわれても」

なんと情けない侍従なのだろう、私は。
これ程御心を傷つけられた媽媽を満足にお支えする事も叶わず、お若い媽媽のお寂しい言葉を聞くだけで涙が溢れる。
これ程お辛い大君媽媽が、兄君を亡くされながら気丈に振舞っておられると言うのに。
恥ずかしさに急いで袖で頬と目許を拭い、私は顔を上げた。

「元の不興を買わぬよう息を顰めて来たのに、私は何故今もここにいるのかな」
「・・・媽媽」
私はお約束した。あの九つの時に、媽媽に跪いて誓った。
御守りすると、そして聖君として故国にお帰り頂くと。それなのに。
「私が、至らぬばかりに」
「ドチヤ、そうではない」

大君媽媽は、首を振って小さく囁かれた。
「ドチが共に居てくれるから、まだだいじょうぶだ」
その御言葉に嗚咽を堪え、私は懸命に頷いた。

 

 

 

 

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