夏暁【柒】 | 2015 summer request Finale

 

 

宴の終わりを待つ口実で、妓楼の庭、回廊の石段へ腰を下ろす。
腰を下ろすなり待ちきれずに懐へ掌を突込み、その中から大切に抱いていた医書を引き摺り出す。

表紙の丸と線の組み合わさったものの意味は分からない。
しかし頁を指先で捲れば、中に書かれているのは見慣れた漢語。
これであれば読み取れると、安堵の息を吐く。

陽はまだ高い。その紙の上の墨痕を追うには十分すぎる程に。

震える指先を宥め、端から丹念に文字を指で追う。
何処にお前の名が出るか分からない。しかしさすがに医書だ。
劉先生の許、見慣れ聞き慣れているとはいえ、病名ばかりをこうして記されると目が眩んでくる。

尸厥、消渇、癭、噎膈、嘈雑、頓嗽、癖嚢。

こんな病の名などどうでも良い。お前は何処だ。
しかし焦って頁を繰れば見落としてしまいそうで、読み進める勢いが削がれる。

一向に進まぬ頁に、苛立ちだけが募る。
俺は医者になりたいわけではない。お前に逢いたいだけなのに。
そんな俺にこうして医書まで読ませるお前は、全く大した女人だ。

不思議なものだ。この中のどこかにお前の名が記されていると知っているからなのだろうか。
まるでお前があの頃のように俺の傍らで、劉先生に張り付き、真剣な瞳で患者を見つめていた頃に戻ったような気がする。

全て、チェ・ヨンの為だったのか。その男の許に戻りたい一心で、あれ程真摯に学んでいたのか。
傍らの俺ではなく、いつでもあの瞳であの男を探していたのか。
共に過ごした庵の中で、時折物言いたげに痞えた声は何だった。

診脈の為に触れたお前の指先。俺の眉の刀傷を塞いだお前の医術。
そして残したあの不思議な言葉が、今でもお前を追い駆けさせる。

─── もしも、本当に必要な時は、私のことだけ考えて、門をくぐってくれる?
ただ、私に会いたいとだけ願って、そうしてくれる?

そうしたろう。お前の言葉の通り、誓った通りにそうしたろう。
だから頼む、出て来てくれ。お前に逢わせてくれ。
今、この朝鮮という世に居らぬのなら、せめてその名だけでも。

お前は夢だったなどと思いたくない。夢の中でしか逢えぬ幻と、そんな風に思いたくない。
強引にでも手を伸ばし攫ってしまえば腕に抱き締められる、生身の女人だったと信じたい。

お前はあそこに確かに居た。
高麗の者かと掛けた声に、急に泣き出した。
逃げる腕を掴めば、この脛を蹴り飛ばした。
物陰で口を塞げば、犬のように噛み付いた。
お前はあそこに確かに居た。

それさえ判れば何度でも天門をくぐる。くぐって必ず、お前の許へ辿り着こう。

散漫に彼方此方へと飛ぶ考えを、どうにか纏めようと目を閉じる。

ウンス。ただ逢いたいだけだ。
お前が倖せならば良い、そう言って手を離してしまった事が今更これ程に己を苦しめるとは、あの時には思いもせずに。
何故に惚れた男が一人と知って、あれ程安堵したのだ。
今になってこれ程悔やむなら、縛り上げてでも帰さねば良かった。
お前を呼んで門をくぐれば、必ずその先に待っている筈と信じた。

根を詰めて追い掛けた文字の残像が、目の奥でちらつく。
痛む蟀谷を指先で抑え、明るさの残る天を仰ぎ息を吐く。

読みかけの頁に挟んだ人差し指は、ほとんど進んでいない事を示す程の手前に挿し込まれている。
どれくらい掛かるんだ、書の中でお前を見つけるだけでも。
確かにいると分かっている書物の中ですらこれ程に掛かるなら、本物のお前に逢うまでの時間を想うと、気が遠くなる。

それでも諦める事など出来ん。お前以外はこの目には映らない。
たとえ夢の中、どれ程悲し気に告げられようとも。

こんな処にいないで。あなたの私を探して。
見つけて、抱き締めて。二度と離さないで。

俺にとってのお前はウンス、お前しかいない。
一体それ以外の誰を探せというのだ。

あの時のようだ。
慰められぬから泣くなと懇願しても、哀し気に俺を見たまま、静かに涙を零し続けていた。
お前しかいないから、探して抱き締めようとしているのに。二度と離さないと思っているのに。
何故夢の中でまで、これ程に俺を悩ませる。

息を吐き、気を取り直し、人差し指まで医書の頁を戻す。
どれ程に頭が痛もうと、どれ程に時間が掛かろうと、それでもお前を追い掛けずにはいられない。
まるで鉄に付く磁石のように、お前に引かれる。
吸い寄せられたと思った時には、もう離れる事が出来ない。
それが倖せなのか、不幸なのかすら分からない。

唯一つ分かるのは、俺の心の先にはウンス、お前しかいない。
その居場所を突き止める為なら、医書だろうか大学だろうが必ず読破して見せる。
どれ程気の進まぬ役でも引き受ける。笠でも何でも差し掛ける。
何でもする、お前の為なら。もう一度逢えるなら。
だから頼む、これ以外は望まないから。これ以上は望まないから。

逢わせてくれ。もう一度でいい。その為ならば、地の涯までも行くから。

 

 

 

 

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1 個のコメント

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    さらんさん、時空を越えた越えた思いを持つ人がここにもいたのですね。
    物事にはどれも表と裏、陽と陰があり、正面から見たら幸せなことでも、裏側には悲しい思いがそこにあり…。
    でも、ソヨンに医学の道が開けたように、いつかソンジンも裏側から正面に、暗い闇から日の当たる正道で笑える日が来ますよね。
    だって、さらんさんのお話には、どこかに必ず“救い”がありますもの。
    さらんさん、素敵なお話を今日も、ありがとうございます。

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