罪人の在所を示す、枸橘に囲われた柴荊。
小さな草庵の隣には其方の方が余程立派な、木の見張り小屋が建っている。
思い出させる。横のこの方と訪れた、慶昌君媽媽の江華島の草庵を。
媽媽の時と違うのはその見張り小屋に官軍の兵が二名立ち、此方に向かって深く頭を下げる事だ。
庵の前、見張り小屋の入口に馬を繋ぎ、そこに立つ兵へ問う。
「どうだ」
己の問い掛けに兵達が姿勢を正す。
「怪しい動きはありません」
「出入りは」
「今のところ、全く報告はなく」
元にも見放されたか。もしくは彼方も今は徳興君どころではないか。
「絶対に目を離すな」
「は!」
頭を下げる兵の脇を抜けて典医寺の面々と共に草庵へ踏み込む。
庵を包むように降り続く昨日からの雨が足元を泥濘へ変え、近づくたびに一歩ずつ厭な水音をたてる。
まだ建てたばかりの庵の入口は白い木肌を剥き出している。
頭から被る外套を毟るように脱ぎながらその木戸を押し開く。
軋みながら開く扉の向こう。
窓の形に切り取られた雨景の中、灰色の濃淡の影が浮かぶ。
横の医官が頭を下げる寝台に横たわる、濃い灰色の影が微かに蠢く。
反射的に鬼剣の柄を握り、大股でその影へと近づく。
息遣いを耳にするだけで、今すぐその咽喉を突いてやりたい。
赦せぬと今でも思う。こうして腕を一本捥いだ後でも。
眸を逸らし大きく深く息を整え、半歩後ろのキム侍医と逆脇のこの方へそれぞれ視線を投げる。
キム侍医はいつも通りの薄い笑みを浮かべている。
まるで仮面を張り付けたように、何の感情も読み取れん。
この方は明らさまな嫌悪の表情を浮かべた後に息を吐き、どうにか平静を保とうと、小さな手を握りしめる。
其々の様子を確かめて、己は奴の残った左腕側の脇へ立つ。
敢えて音を立て鬼剣の柄を握りしめ直すと、鼠が濁った眼を半分見開き、横たわったまま俺の顔を見上げた。
「今更何もせぬ。いや、出来ぬ」
自嘲するような引き攣った笑い声に、その面へ眸だけ落とす。
「信用成りません」
「しろなどとは言わぬ。事実を告げた迄」
これ以上話す事など無い。
唇を結び、ただその左手の動きのみに全て注ぐ。耳も。眸も。
俺の脇、奴の左腕を上げたこの方が脈を取り、手首を肘を曲げては伸ばし持ち上げ、落し、肩を回す間も。
「キム先生」
小さな声で呼ばれた侍医が、この方と共に寝台を離れる。
付いていた医官も交え、低い声で交わす言葉を聞き取れぬまま、ただ残った左腕を睨みつける。
「・・・チェ・ヨン」
徳興君が小さく呟く。
「私は、いつまで生かされる」
「さて」
「お前が知らぬわけがなかろう。せめて教えろ」
「存じません」
「それが判れば、その日を待って生きられる」
甘えるなと胸倉を掴み上げ怒鳴りつけたい。
貴様は己が何をしたのか、この期に及んで判らんかと。
あの方に与えたのだ、それ以上の恐怖を。
じわじわと体を蝕む毒、いつ発熱するか判らぬ恐怖を。
「明日か、十年後か、それすらも教えてもらえぬのか」
「存じません」
「お前も武士であろう。殺す相手に情けはないのか」
「御座いません」
死に行く蝉や白い腹を見せ瀬に浮かぶ魚に懸ける情はあろうと、お前に懸ける情などあるものか。
動かぬのか動かさぬのか、それすら判らん左腕だけを注視し、寝台の脇に立ち尽くす。
雨がようよう上がったか、窓の外が明るくなって来る。
雲の切れ間から射す陽に目を細め、光の中一層侘しさを増す粗末な庵の中。
奴の一回りも細くなった左腕だけを見詰めて立つ。
「・・・じゃあ、それで。典医寺で詳しく書いて来るわね」
あの方の声に頷いたキム侍医と医官らが其々頷き、付き添いの医官が徳興君の脇へと戻って来る。
最後にキム侍医とあの方が、奴の脇に立つ。
「徳興君」
気持ちの揺れを抑えるようにあの方が低く告げる。
「あんた真剣に訓練しないと、本当に左腕まで動かなくなるわよ。
傷が完全に治れば医官もつかなくなるわ。その後で飢え死にしたくなければ、せいぜい頑張るのね」
キム侍医がその声に頷き、無言で踵を返す。
庵の木戸を出るその瞬間に、それまで無言だった徳興君が叫ぶ。
「医仙!」
前を行くこの方の、そしてキム侍医の歩が止まる。
後を守る俺の向こう、徳興君は寝台の上で半身を起こし、扉前の此方に叫び続ける。
「お前の天界のその技で、どうにかならぬのか!」
前のこの方が亜麻色の髪の隙間、肩越しに目だけを流し言い放つ。
「ならない」
「ならないのではなく、しないのだろう!」
「馬鹿にするんじゃないわよ。苦しむ患者を放置なんてしない。
でも私は万能の神じゃない。どうにもならない。訓練で機能を回復するので精一杯よ」
最後にそう言って、この方は扉を抜ける。
「待て、医仙!チェ・ヨン!待たぬか!!」
叫び声を上げる徳興君を背に、俺は後手に軋む木戸を閉める。
*****
官軍の兵に見送られた皇宮への帰路。
無言で駆る三頭の馬蹄が泥濘んだ道の泥を遠慮なく撥ね散らす。
前を行くキム侍医が、ふと騎乗の馬の手綱を絞る。
「虹が」
その声に俺も頷き、愛馬チュホンの脚を止める。
俯いて俺の横の馬を駆っていたこの方が、瞳を上げて息を呑む。
「何、あれ」
誰にともなく上がるその声に静かに教える。
「・・・連虹です」
己も初めて見た。話にしか聞いた事が無い。
「すごい!!」
この方は目を丸くして、露を含んだ木々の合間から覗く澄んだ空へ叫ぶ。
雨上がりの空に大きく弧を描く、七色の半円。
その上に淡く寄り添う、もう一つの七色の虹。
キム侍医がその空を見上げ、楽しそうに前の馬から振り返る。
「まるで、お二人のようだ」
「あんなにきれいって事?」
この方の嬉しそうな声に小首を傾げつつ侍医が呟く。
「美しく珍しく、おまけに離そうにも離れない。見ている此方が照れてしまうほどです」
最後の最後に毒を吐く男だ。
「・・・侍医」
俺の低い声に笑んだ侍医の顔には、あの仮面の様相はない。
それが証拠に奴の笑みはいつもより不器用で、そして皮肉気だ。
徳興君との対面後にこれ程良い顔で笑えるなら、こいつの雨もいつかは上がる。
晴れた陽が射す時がいつかは来る。
「戻りましょう。王様にもご報告を」
鮮やかな弧を描く二本の虹の下。
再び馬を駆るこの方の、長い亜麻色の髪が大きく後ろへ靡く。
あの男に会った帰途であって良かった。
これ程美しい光景に少しでも癒されるなら。
出来ぬ事は出来ぬと言い放った重い心が、僅かでも晴れるなら。
忘れるな。俺は必ずあなたに添う。天に並ぶあの連虹のように。
あなたが一人で苦しむ事など二度と無い。
虹を見る度に思い出せ。そんな風に俺が添っている事を。
その瞳に映ろうと映るまいと、いつも二本目の虹のある事を。
「ヨンア!」
横の馬上から掛かる声に眸を流す。
俺のこの方が髪を乱して叫ぶ。
「虹を見たら、思い出してね!」
だからこの方には敵わん。
鞍上から天を見上げ、浮かぶ七色の二本の弧を目に焼き付ける。
忘れない。どれ程珍しい景色でも、あれが俺達の姿だ。
寄り添い離れずに、そして一本目が生まれねば二本目は無い。
忘れない。必ず思い出す。俺に添う二本目の虹を。
そして俺が、あなたの二本目の虹であることを。
晴れ間を増す明るい空の下、皇宮を目指す。
「ねえ、王様と媽媽も見てるといいわね!」
そんな風に隣の馬上から響く、明るい声を聴きながら。
【 連虹 | 2015 summer request・二重虹 ~ Fin ~ 】

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す、ステキ♥
二本目の虹か…
私も忘れないわ~ ( ´艸`)
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さらんさま
いつも素敵なお話をありがとうございます。
どのお話も好きですが、今回は特に大好き!
前篇から引き込まれました。
我が家のリビングから、たまに二重虹が見えるときがあります。
これからは「ヨンとウンスだわ~♪」と思ってみます。
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さらんさん、久々にスポーツジムに来ております❤︎
エアロバイクこぎながら、コメさせて頂きますσ(^_^;)。久しぶりだから、ちょっとしんどいです(´Д` )
「1本目が生まれなければ、2本目は無い」!
またまた名言です、さらんさん❤︎
辛い別れがあったから、再会し、誰より強固な絆が生まれ、2度と手放なさないと決心したのかも…。
ドラマや映画が盛り上がるのは、名脇役や悪役の力と、手強い事件や哀しい出来事だともいえるのでしょうが、さらんさんのお話は、辛い出来事の上にも、救いがあり…、だから落ち込まず、傷つかず拝読できるのだと思います。
あ、プレッシャーに感じないでくださいねσ(^_^;)
夏リク話、後半にきてしまいましたね。
なんだか、さみしい…(´Д` )