夏の休みも半ば。
明日のトクマンの休暇に合わせ奴が兵舎を出ると同時に、俺は吹抜けを飛び出した。
薄暮の皇庭を典医寺へ向かいただ駆ける。
飛び込んだ典医寺の庭、チャン侍医が不思議そうに此方を見つめた。
「・・・隊長」
その目にそして呼び声に、逸る足を止める。
「何だ」
「いえ、何故」
チャン侍医はそう言って首を傾げる。
迫る薄暮よりも余程黒いその髪が、侍医の衣の肩を掠めて流れる。
「いつもの衛の兵が休暇だ。俺が立つ」
「は」
呆気に取られた様子の侍医に眸を当てる。
「何だ」
「もう既に、迂達赤の兵が医仙の衛に」
その声に侍医を庭に置いたままで走り出す。
聞いておらん。そんな奴がいるなどと。本当に迂達赤か、万一奇轍の手の者なら。
この鼻先で再び、あの方を攫われるような失態があれば。
薬園を駆け抜け、あの方の私室の外まで辿り着き。
そこに佇む見慣れた高い背に、その構えた槍の影に俺は目を剥く。
「・・・トルベ」
低い声を耳聡くとらえ、奴は嬉し気に此方を振り向いた。
「隊長、どうしたんですか!」
その大声を聞きながら、一息に奴へと詰める。
「何故」
「いや、今晩からトクマンが休暇なんで、代わりに」
お前。お前な。
いや、憤るなど間違っている。こいつなりの気遣いだ。
判っている。少なくとも判っているつもりだ。
チュンソク。お前も心底苦労だな。
見当違いの奴ら相手に、毎日毎夜頭を悩ませて。
ゆっくり休め。この夏の終わりは。俺が許す。
目の前のトルベを蹴り飛ばさぬよう大きく肚から息を整える。
そんな肚裡など当然知らぬこいつは心から気遣わし気に笑う。
「良いですよ隊長。俺が立ちますから、戻ってゆっくり休んで下さい」
「・・・トルベ」
「この前の、せめてもの恩返しです」
トルベ、それを何と言うか教えてやる。
恩を仇で返す、そう言うんだ。
目の前の奴の胸倉を掴み上げ怒鳴りつけたい声を、咽喉元で抑えて。
「良いか」
「は、はい」
「そんな暇があれば体を休めるか、鍛錬するかしろ」
「いや、隊長」
「しろよ」
「・・・はあ」
「行け」
トルベは戸惑うよう目を白黒させつつ、それでも大槍を掌の中で握り直し、俺へと深く頭を下げた。
「何か手伝えれば、すぐ呼んで下さい」
最後に残し、奴が踵を返す。
薬園へ続く橋を歩き去る見慣れた背を眸で追い、その背がすっかり消えてから詰めていた息を吐く。
どいつもこいつも、そしてこの俺もだ。
チュソク、お前の言う雲心月性の境地など程遠い。
トルベの姿にこれ程腹が立った理由。
そして全ての気配が消えて心が軽くなる理由も、俺には何も判らない。
判るのはこうして扉の外、暮れていく空を見上げると、浮かぶ月が恐ろしい程澄んでいる事。
澄んだ月を見上げると、何故か扉の向こうのあの方へ、月が美しいと伝えたくなる事だけだ。
まずは今晩、そして明日、一日中。明後日の夕刻まで。
トクマンが戻るまで、俺が守らねばならん。
一日半。時間は長い。飽くほどに。
その時小さな音を立て軋んだ扉へ、素早く眸を走らせる。
薄闇へ漏れる部屋の灯に照らされ、赤い髪が扉から覗く。
「あれ、チェ・ヨンさん。どうしたの?」
薄闇にこれ程似つかわしくない声も珍しい。明るく高い声に顎を下げる。
「いつもの兵が休暇です。明後日の夕刻まで俺が」
その声に頷いた赤い髪が揺れる。
「じゃあ暇でしょ?どうせ守ってくれるなら、部屋に入れば?」
夜空に月が浮かぶ時刻に、男を部屋内へ招くのか。
「・・・此処にて」
「ふうん?」
この方はなぜか楽し気に、そう言って首を傾げる。
「三歩以上離れては守れないって、言ってたのに」
何故選りによって今この時に、そんな事を思い出すのだ。
普段はどれ程伝えようと、聞き入る素振りもないものを。
「守れるの?こんな離れて」
ぐうの音も出ず憮然と唇を引き結ぶ俺を見ると、この方は扉の隙間からするりと抜け出て、俺の横に並ぶ。
そしてそこから黒い空を見上げ、嬉し気に細い指が上がる。
「今日の月、すっごくきれいね!」
ああ、確かに美しい。
木々を渡る風も、それが揺らす薬木の木立の葉も、黒い空も。
浮かぶ月も、その月が作る睫毛の影も、その影が落ちる真白い頬も。
判らない。何故そんな風に思うのか。
判らないまま横のこの方を護り、薄闇の中の気配を探る。
誰も居らん。何の気配もない。
月が美しい。それだけだ。
夏の夜、今判るのはそれだけだ。それだけで良い。
今これ以上、判る必要は無い気がする。
ゆっくりと見えてくる、形にならぬこの心の行き先を、今は見たくはない。知りたくはない。
いつか見えればそれで良い。見えねばそれは其処までだ。
今はただ並んで月を見上げるだけで良い。
俺も夏の休みが必要か。それでも皇宮を離れるなど叶わん。
王様がおられる、そして守り、無事に帰すべき約束がある。
だから此処にいる。それだけだ。
「秋夕には、何をするの?」
闇を縫い、隣から届く声に首を振る。
「決めておりません」
「じゃあ教えて。高麗の秋夕。見てみたいの。案内してくれる?」
「・・・判りました」
トルベ、こうすれば良い。
心から共に過ごしたい相手にのみ、その心を傾けて。
幾つもあるわけがない。
その相手に誘われれば良し。誘われねば其処までだ。
何人もいるわけがない。
夏の休みは要らん。
少なくとも秋夕には、叶えねばならぬ約束が出来た。
ねだる声に月から目を離し、医仙を静かに見つめたまま、俺は黙って頷いた。
【 夏休み| 2015 summer request ~ Fin ~ 】

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リクエスト叶えて頂きどうも有り難うございました。
大人の夏休み…それは心の休息なのかもしれませんね!!
ヨンにとってウンスの側が何より安らげるのでしょうから。
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いつも楽しく読ませて頂いています。
遅ればせながら、シンイに嵌り、サランさんのシンイを一ヶ月位掛けて一気読みしたところです(^-^)ヨン最高‼︎ウンスが大事過ぎていつも大変なヨンですが男前過ぎて目が離せません。
こんなに面白いとは…、アメンバー募集再開を望むのはサランさんの意向を考えるといけないのかもしれませんが、私もアメンバーに加えて頂きたいのですm(_ _)m
一気読みする中で、アメ限が読めない寂しさ…、今更ながら募集再開を切に望みます。勝手なお願いですみませんm(_ _)m
ご検討頂けると幸いです(^-^)
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夏休みのタイトル。、どんなお話が展開されるのかと思っていました。
笑ったし、胸の奥がキュンとなったし、最後は頑張れヨン!と心の中で声をかけていました。
こんなにいろいろ思って行ったり来たりするヨン。あまりにかわいらしいヨン。
ウンスを護ることのできたヨン。。
忘れられない夏休みの思い出ができたことでしょう♪♪
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さらんさん、此度も素敵なお話をありがとうございます❤︎
トルベの恩返しも、ヨンにとっては大迷惑でしたねσ(^_^;)。
さらんさんに『ヨンの心の声』を聞かせていただいている私達には、もう可笑しくて可愛くて、愛おしさ倍増です。
秋夕には、ヨンとウンス二人揃って、大きな満月を見上げることができるといいなぁ~❤︎
そんな二人の様子、さらんさん、見せて下さいね(#^.^#)
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大護軍のお顔が(笑)浮かぶ凄い!描写力です(^O^)
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とてもおもしろかったです。
トルベらしい行動、部下の失態をカバーしてやる
ヨン、薄っぺらな言い方ですがとにかくかっこいいですね。
「トルベ、こうすればいい。」からの5行は心に響きました。