夏暁【陸】 | 2015 summer request Finale

 

 

指定の場所は、思ったよりも近くにあった。
其処へ向けゆっくりと歩きつつ、懐に納めた医書が揺れるのを唯一つの心の支えに、傘を翳しソヨンの横へ着く。
この歩がウンス、お前の手掛かりへと続くことを祈るしかない。
この懐の唯一の手掛かりが、お前へ導いてくれると信じるしか。

こうして事有る毎に思い知らされるだけ。
私の横、無表情のまま傘を翳すソンジンの想いがどれ程深いか、ウンスという女にどれ程恋い焦がれているかを。
手掛かりを得る為なら、あれ程拒む護衛も一言の許引き受ける。
自分の何を擲とうと差し出そうと、体面すら構わないとばかり。

ウンス。必ずだ。必ずもう一度逢いに行く。

夏空の下、傘を差し掛け、呼び出しの妓楼へ道を辿る。
横の影がお前なら、陽でも雨でも避けてやるのに。

 

ソンジン。あんたにこの想いは伝わらない。

降るような蝉時雨が、周囲の閑けさを一層引き立てる。
私の声など、小さな虫の声に簡単に掻き消される。
「大監、医女ソヨンが参りました」

宴席を催しているのだろう妓楼の座敷の扉前。
私を案内した男はそこで足を止め、扉へと丁寧に声を掛ける。
「入りなさい」

目の前の扉が、案内の男の手でゆっくりと開かれる。
共に回廊を歩いて来たソンジンは、その声を確かめると踵を返し、静かに回廊を戻っていく。

まさか適当な処で引き上げる声掛け、忘れたりしないでしょうね。
部屋へと踏み込む刹那、肩越しに目を遣って、ソンジンへと小さく声を掛ける。
「ソンジン」

回廊を戻る足を止め、そこからソンジンが振り返る。
何だと問い掛けるその黒い眸に向かって、私は首を傾げて見せる。
忘れてないわよね。頼んだわよ?
ソンジンは否とも応とも返答せず、ただ顎先で頷いて見せた。
それでも覚えてると信じる。信じて頷き返して、私は部屋内へと一歩、静かに踏み込んだ。

 

「ソヨン、足労掛けたな」
「お久しぶりです、大監」
宴席、なのだろうか。部屋の中を見渡しても、観察使以外の姿は誰一人目に入らない。
一人で座る観察使の前の卓にも、酒肴の何一つ上がっていない。
「酒宴では、ないのですか」
私の問い掛けに、観察使は愉快そうに首を振った。
「まあ座れ。そなたには酒宴と、そのように伝わっておったのか」
「いえ、そういうわけでは」

観察使の卓を挟んだ向かいに腰を下ろして首を振る。呼び出しの女は言った。
先だって牧使のご子息の一件でお目通りが延びていたのを、気に掛けて下さって。
確かに酒宴だとは、一言も言われていない。
「故にそれ程、めかし込んで参ったか」
「・・・これは」
「良い良い。大層美しい。目の保養だ。散歩も思うように出来ぬ身故、目の前の花は嬉しいものだ」
「大監」
「先日は難儀であったな。牧使にはきつい灸を据えた」
「・・・はい」

有力者の両班の息子が何をしようと、詫びる必要なんてない。
ましてこの目の前にいる、観察使の差し向けたものではない。
どうせ奴らはそんな男だ。この世で自分たちが人間で、他の者は虫けらだとでも思っている。
その虫けらの中でも一番下等な虫に咬まれて、腹が立っただけだろう。
踏みつけて殺されなかっただけ、ましだと思えとでも思っている筈だ。
「ソヨン」
観察使が痛ましそうに、私へと目を向ける。
「はい、大監」
「そなた、ずっとそのように生きたいか」
「・・・え?」
「呼び出しを受ければ治療ではなく、宴席と疑わずに化粧を施して豪華な衣服を纏うて駆けつける。医女であるのにな」
「でも、それは王様がお決めになった国法でしょう」
「あの折に、そなたに伝えようと思うておったのだ」

観察使は懐から、一枚の文を取り出した。
長く懐へ納めていたのだろう。紙の表面が毛羽立っている。
「興味はあるか」

卓の此方の私へと、その文を押し出して見せる。
内医院医女扶育校、子徒を募る。連なる墨の文字に私は顔を上げる。
郷校にて医女資格を授かった者のみの募集。
「覚悟は、した方が良い」
「大監」
「宮中の扶育校だ。王様の御目に留まる機会も多くなろう。唯でさえ医女を薬房妓生として宴に駆り出す方だ。
賢いそなたの言う通り。これが、現在の国法だ」
「大監・・・」

目の目の卓向うの観察使が声を低く、低く落とす。
「但し、変わるかもしれぬ」
「変わる」
私はその声を、低く低く繰り返す。
「この世は雨ばかり夜ばかりでは無い。降り続く雨、明けぬ夜は無い」
「大監?」
観察使は気を取り直すように、少し笑った。
「・・・年寄りの戯言だ。最近晴天が多いでな」

そう言って、卓の前の私を静かに眺める。
「約束してくれぬか、ソヨン」
「え?」
「これから儂が必要とした時には、この年寄りを助けてくれぬか」
「奥方様の具合が、お悪いのですか」
「いや、そうではない。儂よりも元気だ。万一あれの具合が悪ければ此処ではなく宅へと呼んでおろう」
「奥方様を拝診する以外に、この私が大監のお役に立つなど」
「そなたは分かっておらずとも」

観察使は、私を見つめてそう言った。
「ソヨン、人には分がある。身分もそうだ。才もまたな。身分は血が決めるものだが、才はそうではない。
どれ程高い身分でも残念ながら、才を持たぬ者が居る。そして主君の才を発揮させられぬ愚昧な臣下もな」
「大監」

両班の最高位とも言えるような地位の、不惑の域に達しようという男が、一体何という事を言うのだろう。
「この朴元宗の言葉、此処だけのものと分かっておろう」
「はい」

当たり前だ。こんな話が万一にも部屋外へ漏れれば、観察使も私も決して無事では済まない。
両班の男が、同じ両班にも才の無い者がいるなどと愚弄するなんて。
「思うた通りだ、そなたは賢いのう」

目の前の観察使は、そう言って大きく頷いた。
「どうする。都へ、宮中へ上がってみるか」
「是非」
「今のような暮らしは出来ぬぞ」
「構いません」
「真に構わぬか。顔が映るような粥を啜る破目になるかもしれん」
「構いません」
「美しい化粧も衣装も着けられぬぞ。若いお前には辛くはないか」
「構いません」
「では儂より、内医院へ話を付けよう」
「よろしくお願いいたします、大監」
「儂の監営にそなたが居って、幸いであった。合格すれば儂も鼻が高い」
「必ず、ご期待に添うよう学びます」
「うむ」

観察使は満足したように、ゆったりと懐へ手を差し入れた。
「詳しい事が分かれば、また伝えよう。暫し待つが良い」

 

 


 

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