錦灯籠【捌】 | 2015 summer request ・鬼灯

 

 

「チェ・ヨン殿」
髪の先から水を滴らせ診察棟へと踏み入った姿に驚いたように、キム侍医が声を上げた。
「どうしました」
「濡れた」
「・・・それは一目瞭然ですが」

キム侍医は苦笑すると診察室の隅に積んだ手拭いを渡しながら
「ウンス殿はお部屋に」
訳知り顔の目線の先で、あの方の私室の扉を示した。
「いや、侍医に話がある」
「・・・私に、ですか」
首を振ると、心から意外だとでも言いたげな声が返る。
「あの方の目の届かぬ場所でな」

言葉を重ねると戸惑ったような表情で
「では・・・私の部屋で、宜しいですか」
キム侍医が頷くと医官らに向け低く言う。
「ウンス殿には、チェ・ヨン殿の御来訪は内密に」

診察室を出る俺達に、皆は不思議そうな顔で頭を下げた。

 

*****

 

「侍医」
侍医の私室で向かい合い、何処から切り出すかと逡巡する。
男同士でこんな話をするのも妙なものだ。
「はい」
話の内容など予想もつかんのだろう。侍医は穏やかに頷く。
俺は首筋を掻くと、侍医から眸を逸らして尋ねた。
「侍医がもしも月水流しを請け負うなら、理由は何だ」

侍医は問いに憤慨したかのよう、小さく鋭い息を吐く。
「・・・私は絶対に、それは致しません」
「そうか」
「第一高麗では王命で禁じられております。チェ・ヨン殿が一番よく御存知では」
「ああ。それ故知りたい」
「それ故、ですか・・・」

侍医は思慮深げに目線を下げた。
暫し思いに耽るようそのまま膝に置いた己の指先を眺め、 ようやく目を上げると首を傾げる。
「もしも、するならば」

小さな声にその目を見ると
「生を享ければ不幸になると明白な時、でしょうか」
「不幸とはどんな時だ」
「チェ・ヨン殿、それです」
侍医は我が意を得たりとばかり微笑んで続ける。

「御存知の通り、私は毒を学んできました。同時に医を。大食国で、天竺で、元で、そして高麗で。宮廷で、市井で。
いろいろな価値観がある。宮廷では政敵が子を成したから流すなど、日常茶飯事です。
呪詛の札などと言う生温いものではない。毒はそれには打ってつけです。故に始終、否応なく目にした」
「浅ましさは何処も変わらんな」
「おっしゃる通り」

侍医は深く頷いた。
「保身と欲だけで、生かされも殺されもするのです。腹の子に限ったことでなく、大人も子供も全ての者が。
生きた心地も無く、明日毒を盛られるかもしれません。
見る者によっては、そんな場所で生まれる子こそ不幸と言う。
そして逆から見れば、そんな事で殺される子こそ不幸と言う。そういうものです。幸不幸の線引きなど誰も出来ない。
市井では、貧しいから生まれる前に間引くと言う者がいる。逆に一人でも多く子を持てば人足が増えると喜ぶ者もいる。
衣服も食事も満足でないのは、生まれる前から分かっている。生まれれば最後、飢えと重労働に一生苦しむのは明白だ。
そこに生まれるのは幸でしょうか、不幸でしょうか」
「・・・分からん」
「だから致しません。私にも判らないので」

漸く言わんとする事を得心した俺を、その困惑した目で見詰め
「しかしチェ・ヨン殿からは人を生かせと言う声は聞いても、殺せと言う声を聞くとは思いませんでした」
「ふざけるな!」

思わず声が大きくなった。この男やはり未だに俺を分かっておらん。
「腹の子を殺せなど言わん。ただ、理由が知りたかった」
「何故にでしょう」
「・・・どうにか、名分を見つけねばならん」
「そんな物はないでしょう」
「それでもだ、侍医。それでも見つけねば、すでに生まれている奴が不幸になるかもしれん」
「一つだけ名分があるとすれば」

侍医はそう言って此方をじっと見た。
「薬の誤飲、でしょうか」
「誤飲などあるのか」
「チェ・ヨン殿。毒と薬は紙一重なのですよ。量を間違えても、症を診誤っても、患者次第で即ち毒となります。
患者が自身の体を伝え誤った時も、未熟な医者が患者の状態を診誤った時も」
キム侍医は息を継ぎ、困ったように笑む。
「何方も、毒を飲むことになる。だから恐ろしいのです」
「ほおづきは」
「酸漿ですね。通常ならば鎮静、鎮痛に用いる薬草です。子を孕んだ女人でなくば、どの者にも処方いたします」

そうだ。言っていた。
あの時薬師は、己の口で言っていたではないか。
咳や痰、解熱に効く薬を出した。作用は説明した。
それを飲んだのは其方だと。

突破口はこれしかないのかもしれん。
そして薬師には二度と繰り返さぬよう、約束させるしか。

「他に同じようなものはあるのか」
「山ほど御座います。熊廿楽、月見草、母菊、丹参、苛草、牡荊、黒升麻、艾葉・・・・・・」
侍医は指を折り、次々に生薬の名を空で諳んじる。そして俺に目を流し
「まだお知りになりたいですか」
「もう良い」
俺は首を振る。次々に上がるその名に頭が揺れて来る。

「腹に子のない時ならば、どれも安全に効くものです。子を産んだ後に血が止まらぬ時には、止血の効果も高い。
故に子が生まれれば直ぐにも処方する事がありますし、子を成す事が難しい時に処方する事もあります」
「まさに紙一重だな」
「はい」

腕を組み、思案する。いや、すでに考える時間すら残っていない。
トクマンも薬師も傷つけず、名分を立て、王様にご報告するには。
だいたいが頭を使うのは俺の得手ではない。
これは本来ならチュンソクの役目だろうが。

目許へかかる乾きかけた前髪を額へ上げ、椅子を立ち侍医へと小さく顎を下げる。
「判った。助かった」

 

*****

 

「トクマニ」

吹抜へと大股で踏み込む大護軍が呼ぶ声。昨日より幾分穏やかなのだけは救いだが。
心の臓が縮む思いで俺は振り返る。
「大護軍」
「おう」
「奴は今の刻、宣任殿の歩哨に。何か」
「戻ればすぐ呼べ」
「また仕出かしましたか」

俺の困った声に大護軍が咽喉奥で笑う。
「そうそう遣らかされて堪るか」
そこまで言って声を顰める。確かに迂達赤内とはいえ、外聞の良い話ではない。
大護軍も他の奴らの耳に入らぬよう、配慮しているのだろう。
「薬師を救う名分だ。奴に聞きたいことがある」
「判りました。戻ればすぐ大護軍のところへ行かせます」
「俺の処へな」

大護軍は皮肉気に片頬を歪めた。
「間違っても、あの方の許でなく」
・・・これは、まだ拘っているな。全くトクマンも愚かな事をしたものだ。
この人は豪放磊落に見えても、大切な方に関しては執念深い。ここまで傍にいてそれすらもまだ読めぬとは。
俺はトクマンの軽率さと、大護軍の執念の双方に溜息を吐き、
「・・・は」
とだけ言って、項垂れた。

誤飲。
恐らくどうにかなるだろう。
侍医の言葉からも判る。毒と薬はまさに紙一重。
出来たと知らず飲めば子を失う、薬という名の毒。
そして子が生まれ出でた時からは、薬となる毒。

咽喉を嗄らして言葉を尽くし分かっていて飲むなら、確かに薬師はそれ以上は手が出せぬと言うしかない。
全ての者が己の体を正しく見極められる訳もない。
全ての医者があの方のような天の医術を持っている訳もない。

媽媽のような高貴の方で、御子を心待ちにしているわけでもない者。
そしてあの方のような天の医術を持ち合わせた医者でもなくば、起こり得る事と言っても差障りはないかもしれん。
しかし問題は、どうやって二度とせぬと約束させるかだ。
差障りがないからと続けるのでは、何の解決にもならん。
まして亡くなった者を土塊扱いするような薬師では。

土塊か。

確かにそうかもしれん。
何の想いもない他人がどれだけ死のうと、土塊かもしれん。
それでも想いの残る者にしてみれば、土塊呼ばわりは腹立たしい。
母上、父上、師父、メヒ、赤月隊の家族。
チャン侍医、チュソク、トルベ、先に逝った迂達赤の奴ら。
そして慶昌君媽媽。

土塊ではない。俺にとっては。
決して土塊となる事はない。
一人きりの野辺送りは終わる事はない。
胸の中の墓標はいつまでも朽ちることはない。
胸内に浮かぶのはその穏やかな声、明るい笑顔。
交わした言葉、共に過ごした日々、繋いだ約束。

事有る毎に花を供え、手を合わせ、問いかける。
今は幸せか。穏やかか。そしていつかまた会えるのか。

己が土塊扱いされるのは気にせん。
それでも死ねぬと思うのは、あの方にとって俺が土塊となる事がないからだ。
あの方に一人、永遠に哀しい野辺送りをさせるなど我慢できん。
その荒涼たる光景を想うだけで。

魂の片割れを持たぬ者、来世でも探すとの誓いを知らぬ者。
そんな者らにどれだけ伝えようと、伝わるものではない。

「大護軍、お呼びですか!」

聞こえた階下からの足音と大声に、ふと息を吐き目を上げる。
黙れと願う時は煩く、肝心な時に言葉が少ない。奴はまだまだだ。

 

 

 

 

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2 件のコメント

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    ヨン 突破口を見つけましたね(^^)
    後は、あの頑ななアラの心を
    どう説かすか?
    続きが待たれます♪
    きょうはチュンソクに1票を~
    “俺はトクマンの軽率さと、大護軍の執念の双方に溜息を吐き…"
    その気持ち良く分かります(^^;
    「・・・は

  • SECRET: 0
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    さらんさん、今日もお楽しみのお話を更新いただき、本当にありがとうございます。
    論語に「薬も過ぎれば毒となる」という言葉があるそうですが、服用する者やタイミングによって、命を落とすことにもなるんですね…。
    此度のシリーズも勉強になるなあ~と感慨深く拝読させて頂きました。
    アラが堕胎を施している理由がわからねば、誰が止めても彼女はこの先も禁止されている行為と知りつつ、続けるのでしょうね。
    彼女の心の闇に、光を当てられるのは誰でしょうか。
    さらんさん、ドキドキしつつ続きをお待ちしています。

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