紅蓮・勢 | 62

 

 

「王様」

康安殿の私室に静かに入って来たドチが扉脇から、執務机の前で卓に向かい腰掛ける寡人を呼んだ。
その声に執務机に広げた、何度読み返したか知れぬ大護軍の文から目を上げる。
「大護軍御一行様が、お戻りになりました」
沈んだ心を奮い立たせるよう、ドチが懸命に声を張る。
「大護軍の用向きが片付き次第、すぐに此処へ呼べ」
そう伝える声に、
「畏まりました」
震えを抑えるように答え、顔を隠すようドチは頭を下げた。

初夏を迎えた康安殿の窓の外。薫風に揺れる梔子の枝。
皇庭は眩しいほど明るいはずが、その光すらこの部屋の中までは届かぬ。

・・・いや、違う。そうではない。
あの叔父を捕らえた。叔父が皇宮へ戻ってきた。
その全てに纏わる思い出が昏くしているのだ。

徳成府院君奇轍と共に企んだ謀反。寡人を挫く為に王妃を攫った罪。
その王妃を傷つけたばかりか腹の中のまだ見ぬ吾子を弑した、命を持ってしても償いきれぬ大罪。

そんな男に向かい膝を床に付き、あまつさえ己の治めるこの国を売ろうとしたその屈辱と罪悪感。
それが部屋の内もそして己の心をも、真黒に塗り潰しているのだ。
どんな光も届かぬ程の恨と憤怒と憎しみとで。

それが証拠に窓からの光は見えずとも、振り返ってドチを見る己の影だけは、床に伸びているのが見える。
射し込む初夏の陽が作る、大層短く濃きその影だけは。

 

*****

 

「チュンソク」
「は!」
「徳興君を牢へぶち込め。絶対に逃げぬよう鎖で繋げ」
早足で抜ける回廊の背の後ろ、従いたチュンソクが
「は!」
そう頷いて隊列を抜けた。

「トクマニ」
「はい!」
「翻意なかった兵たちをそのまま牢へ。
王様とご相談の上、御沙汰を待つ」
足を緩めぬ俺の後ろ、トクマンは息を切らしながら
「はい!」
そう叫び脇道へと逸れた。

「テマナ」
「はい大護軍!」
「あの方を護れ。今は侍医へ近づけるな」
最後に加えるとテマンは跳ねるように
「はい大護軍!」
そう言って来た道を駆け戻った。

王命どおり此処まで無傷で戻した以上、もう何処からも誰からも手は出させん。
俺が何れ必ず、奴の息の根を止める。

あの方が口を滑らせ徳興君の件を口走ろうものなら、まずキム侍医が必ず動き出す。
さもなくば四年の間この時を待っておられたであろう王様が、先に御手を汚されるかもしれん。
どちらも人を斬って良い立場ではない。
それぞれの正道を、歩んで頂く。

あの男に断ち切れぬ恨を持ち、且つ斬って赦されるのは今、この俺しかおらん。

 

大護軍は内心、どれほど怒っておったろうか。
あの男を殺めずに、寡人の元へ連れてこいと言った折。
己が大護軍の立場であったなら、この軟弱で日和見の王になどとうに見切りをつけておる。
愛する王妃を傷つけられ、吾子を殺められた私憤より王の立場を優先するなど。
あのチェ・ヨンは理解も我慢もできぬに違いない。

真昏い部屋の中、真黒い心でそう思う。
分かってもらえずとも仕方がない。
己ですら間違うておると思うのだから。

訪れる大護軍を待ちながら、康安殿の部屋の中を右へ左へと、腕を組みつつ歩を進める。
「王様、どうかお静まりを」
ドチの声が、何処か遠く聞こえる。
「御顔の色が優れませぬ。御医を呼びますか」
応える事もなく、ひたすらに願う。

徳興君。必ず自身の口から白状させてやる。
四年前征東行省で起こしたあの謀反の全容。
そして王妃を攫い、吾子を弑したその全貌。

その上で殺さずに生かしてやる。
生かして、死ぬより辛い目に遭わせてやろう。
死にたい、殺してくれと、その口から言わせてやろう。
それすら言えず闇へと葬られた、全ての者の分までも。

そして一度はその手に売り渡そうとしたこの国の為、民の為。
最後の最後まで生きて役に立って頂こう。
「王様」
私室の扉の向こう、あの男の低い声が響く。
「入れ」
扉脇に控えたドチが、内からすぐに扉を開く。

外の回廊、壁に切られた格子窓からの陽を背に浴び、大きな鎧の影が一礼し、広い歩幅で部屋へ踏み込む。
この男だけはいつでも変わらぬ。寡人の最初の民になると言ったあの時以来。

己の心が沈もうと浮かぼうと、明るかろうと昏かろうと。
まるで風雨にも揺るがぬ、根の深い木の如く其処に在る。

これほどの安心感を、寡人も民に与えてやらねばならぬ。
あんな小鼠に、二度と揺るがされぬ国を創らねばならぬ。
従いて来てくれるこの虎と共に、必ず完遂せねばならぬ。

その為にも叔父上、あなたは生きていてもらわねば困る。
簡単に引導を渡すには、この胸の恨は重すぎ、深すぎる。

 

 

 

 

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