2016再開祭 | 胸の蝶・柒

 

 

「ヒド様」

既に悔いていた。この女は喧し過ぎる。
開京への帰途の山道、その口は一時も結ばれる事がない。

止む事もなく烈しくもならぬ煙雨の中、道の彼方此方を見回して女は一本の木の下へ駆け寄った。
落ちる雨で顔が濡れるのも気にせず枝を仰ぎ指で差すと、嬉しそうに弾む声が俺に尋ねた。
「こんなに遠出をしたのは初めてです。あれは何ですか」
「・・・木通」
「アケビとはあんな風に生るものなのですね!採っても良いでしょうか」

山に生える果実として、知っているのが普通だろう。
住職は一体この女の何を見て、知恵が豊かだなどと言ったのか。

金に不自由しなかったのは真実かもしれん。
生きて行く為に山に入る民なら、秋には色も形も目立つ木通を最初に採るものだ。
それを知らぬなど般若の名が廃る。民の食い物も知らず、仏の智慧どころの話ではない。
「黙れ」
「え」
低い一喝に女は驚いたよう目を丸くした。

「先は長い。体が持たぬ」
俺の声に女は項垂れ肩を落とす。これで静かになるのなら、それに越した事はない。
再び歩き出した山道に、もう二度と声はせぬだろう。
そんな風に考えた俺は、とことん甘かったらしい。

「ヒド様」
先刻項垂れたばかりの女が、懲りもせずに俺を呼ぶ。
返答を返せば図に乗ると考えて、黙ったままで先を行く。
「ヒド様」

女はもう一度呼ぶと、泥濘で滑る山道を小走りに寄って来る。
「言ったろうが」

足は止めぬ。歩いて止まり、また歩くのが、最も体力を消耗する。
常に同じ速さで歩く事。急ぎも緩めもせず、同じ歩幅で歩く事。
山歩きの則すら知らず、この女は今迄一体どうやって生きて来たのだ。
呆れた俺の顔を横から見上げ、女は真直ぐ訊いて来た。

「ヒド様は、私に見覚えはないですか」
「・・・何故」
「私はヒド様をお見かけした事があります」

単刀直入に問われ、前を向いたままでいるのがやっとだ。
州を抜ける前に言えば良い、寧ろ寺で言えば良かったろう。
憶えていたなら役場にでも何処でも駆け込めば良いものを。

今まで愚にもつかぬ事を散々捲くし立てて、こんな外郭の山道に差し掛かってから言う事はない。
順序が逆だ。口を封じる為に、俺が今この場で手甲を脱ぎ捨てれば如何する。

山中の一本道。周囲は崖と鬱蒼とした木立。逃げ道もなく、周囲には加勢に駆け寄る人影もない。
女の身で剣すら持たず、ただ風に刻まれるのを待つだけだ。
そんな分別もない程に愚かな女なのかと呆れて息を吐けば
「お会いしたかったです。初めてお見かけしてから、ずっと」

俺を怨むも憎むも殺すも構わんが、それが元でヨンの計が頓挫するならば、連れて行く訳にはいかん。

如何する。 顔には出さず肚では焦る。
如何する。今ならば水州に戻るにも然程遠くはない。戻って確実に遍照を知らぬ女を見つけた方が早いか。

「ずっとお礼を言いたかったのです。まさかあのお寺でお会いできるなど、思いもしませんでした。仏様のお導きですね」

続く女の震える声に思わず足が止まる。急がずに緩めずにと、言い聞かせていたこの足が。
親の仇に礼。一体何を企んでいるのかと思わず女の顔を眺めても、此方を見上げる目に一点の濁りもない。

・・・本気で礼を言いたいのか。 親を斬った男に。

「私の父の葬列の日に。憶えておいでではないですか」
「何故俺だと」
「その黒い手套です」

女はそう言って、俺の手甲を目で示す。
「その方が笠を直された手に、同じような黒い手套が。ヒド様ではございませんでしたか。
こうして拝見する程、御顔も」
似ているのですが・・・と、女は続けて口の中で呟いた。
声が低くなったのは、俺が女を睨んだからだろう。

「何故礼だ」
「やはりヒド様なのですか」
その途端、雨で泥濘んだ土がぐじゅりと鳴った。
否とも応とも答える前に、女は泥濘の地面にそのまま膝をついた。
重い音で跳ね返る泥水も構わず、女は深く一礼をする。
顔の両脇から垂れる長い髪の先が、泥水に浸る。
「何をしておる」

見る間に雨泥を吸い込み、ぐっしょりと重そうに汚れた衣。
それでも女は一向に気にも留めず、泥濘の中に両手をついたままで俺に向かい顔だけを上げた。

 

 

 

 

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