2016 再開祭 | 五徳・陸(終)

 

 

【 五徳 】

 

 

気にしていないと言えば嘘だが、今は忘れている事が多い。
それ程時間を掛け、ひたすら一途に待っていて下さった方。
時に無理な背伸びをしてまで大人になろうとして下さっているキョンヒ様を、心から愛しく思う。

以前なら往来で叫び散らし大声で奴を怒鳴りつけていたろう。
そんな方が今回はハナ殿の取り成しにぐっと息を呑み、黙って頷いたのも嬉しい。
小走りに俺に寄ると黙って袖の影でこの手を握り締め、頭を上げて歩き出して下さったのもありがたい。

俺の顔も立て、トクマンの顔も立て。
ハナ殿に責め立てられたのはハナ殿と二人の問題で、奴の自業自得だ。
そもそも誘いもせんのについて来たあいつが悪い。

「付き合うまでも無い」
俺と並んで歩き始めたキョンヒ様の半歩後。
キョンヒ様に礼を尽くしそこを歩く大護軍の低い声がする。
その横に添う医仙が、大護軍へ向け不思議そうに問い掛けた。

「付き合う?夜市に?お付き合いなの?」
「・・・いえ」
大護軍がこうして己の後を歩くなど、今までにない事だ。
だからその低い声が大きく聞こえてしまう。
「デートに誘ってくれたのかと思ったのに。違うの?」
斜め後ろからの大護軍の視線を、視界の隅で気にしてしまう。
「此方の話です」
「すぐそうやってごまかすんだから!気になるでしょ?教えてよ」

藍を増していく空の下、大護軍の脇の医仙の弾むような楽し気な声が続く。
そんなお二人の会話を聞きながら、俺の横でキョンヒ様の小さな声がする。
「チュンソク」
「はい」
「チュンソクの頭に一本も毛の残らぬ翁になってからでも良いから、いつかウンスと大護軍みたいな夫婦になれたら嬉しい」
「・・・その件ですが」

往来を行く袖の下、隠して強く握られた手を緩く握り返す。
「近々儀賓大監と銀主公主の御二人に、王様よりお話があるかと」
「王命か」
「いえ、あくまで王様の御親書です」
「御親書・・・私信か」
「はい」

先刻までみっつ前後に並んでいた各々の背は、夏の夕風に揺れ始めた夜市の提灯の中で散っていく。

懸命に機嫌を取ろうと、金甜瓜を並べる店先を覗くハナ殿に腰を折って詫び続けるトクマン。
それを無視するように、ひたすら金甜瓜を吟味し続けるハナ殿の横顔。

何処と決まった店でなく薬房から小物の店まで。
あらゆる店先で足を止め覗き込む医仙の横、背を伸ばし往来を見渡す大護軍。
医仙の指で袖口を引かれた時だけ、その目が穏やかになる。

そしてこうして手を握り、新しくあなたの好きな物を知ろうとする己。
どんな店先で足を止めどんな物を欲しがるか。知らない事はまだ多い。
そんなあなたに王様の親書が届く。及び腰も此処までだ。

「何か深刻な事なのか」
キョンヒ様はそう言って、不安そうに手を握ったままで俺を見上げる。
覚悟しろ。そうだ、あの時から大護軍に言われていた。
キョンヒ様を選び、守ると決めたなら、何が起きようと超えるしかない。

「チュンソク」
「いえ、深刻な事ではありません。キョンヒ様」
「うん」
「ただ、申し訳なく」
「この間からそればかりだ。何故そんなに謝るの」

申し訳ない。己の腰の重さ故にこの口から尋ねるより先に、王様の親書を読まれる事になったなら。
親書とは言え名分がある。下賜されれば公主も儀賓大監も、お断りになる事は出来んだろう。
だから人の溢れる往来で、あの人たちの気配を目と鼻の先に、こうしてお尋ねするしかなくなった。

これは絶対に命に従ったお願いではないと、これからのあなたに判って頂く為に。

「俺の妻に、なって下さいませんか」
「・・・え」

西陽の名残が目に痛い。いや、風に揺れる提灯の蝋燭だろうか。
それとも眩しい程に美しくなった、今を盛りのこの方だろうか。
輝きに負けそうな目を開き、ただ真直ぐに黒い瞳に問い掛ける。

「なって下さいませんか」
「チュンソク」
「王様が懐かしがっておられました。キョンヒ様と康安殿でお逢いした日の事を」
「王様が」
「何も出来ずに申し訳ないと。ただキョンヒ様が可愛いと。
吉祥日を書雲観で見立て儀賓大監と銀主公主にお伝えするので、婚儀の日取りを選ぶようにと」
「そこまでして下さるのか」
「はい」

大喜びされると思った。
人目も憚らず往来で叫んで、首っ玉にもう一度ぶら下がるようにしがみついて下さると。
これではむしろ、喜びに沸いているのは俺だけのような気がする。
それ程冷静に思慮深い様子で、キョンヒ様は黒い瞳に提灯の灯を映し、この目をじっと見上げている。

「チュンソクは」
「はい」
「チュンソクは、本当にそうしたいのか。それとも御命だから」
「キョンヒ様」
「本当に良いの。チュンソクが良いと思った時で良いのだ。心からそう思ってくれた時で。無理はしないで」
「今が良いのです!」

立場が逆だ。人目を憚らず往来で叫ぶ破目に陥ったのは此方だった。
「髷が結えなくなってからでは、遅すぎるでしょう!」
「ちゅ、チュンソク」
慌てたように袖の影でこの手を引くキョンヒ様の柔らかい手を、強く握り締める破目に陥ったのは此方だった。

「困るならおっしゃってください。お待ちします。キョンヒ様のご準備が全て整うまで」
「チュンソク」
「近々の御日付は選ばれぬと思います。詳細は俺も判り兼ねますが」
「分かった。分かったから、チュンソク」

往来の人波がこの大声に、何事かというように振り返りつつ通り過ぎていく。
キョンヒ様は驚いたように黒い目を丸くして、慌ててご自身の唇に指を一本立ててみせる。
「迂達赤隊長が、こんな人波で叫んではいけない。少し落ち着こう。茶店にでも行こうか」

何という事だ。あのキョンヒ様にこうして宥められる日が来るなど。
「結構です」
「じゃあ帰ろう。帰って二人でゆっくり話そう」
「まだどの店もご覧になっていないでしょう」
「だって」

キョンヒ様は嬉し気に恥ずかし気に、そして宥めるようにこの手をもう一度柔らかく握る。
「胸がいっぱいで、菓子や果物なんて目に入らない」
「それなら別の物をご覧になれば良いでしょう。夜市が楽しみだったのでは」
「違うのだ、チュンソク」

小さな手が、柔らかい頬の横で俺を手招く。
その手に呼ばれ桃色の口許へ耳を寄せた俺に背伸びをし、キョンヒ様が困ったように囁いた。

「チュンソクしか見えない」

 

*****

 

蜩始鳴の夏空に夕陽が沈む。
藍の濃さを増す天の頂には夏の星が、蛍のように薄く白く光り始める。
「大護軍!」

この方を護り佇む俺の横、侍女殿と共にトクマンが駆けつける。
「隊長の声が。どうしたんですか」

前を行く往来の人波の先。
見え隠れするチュンソクと敬姫様の姿を探し、トクマンが視線を投げる。
侍女殿は人波に遮られて見えぬ姿に、不安げに丈高いトクマンを仰ぎ見た。
「姫様は御無事ですか」

その声に頷くとトクマンは何を思ったか。
いきなりハナ殿の腰を両手で支え、人波の向こうが見えるよう高く抱え上げた。
「と、トクマン様!」
「ご無事でしょう。見えますか、ハナ殿」

碌に知らぬ男に往来で抱え上げられ、見えますかも無いものだ。
トクマンらしい突飛さに、思わず苦笑いが浮かぶ。
案の定、侍女殿が抱えられて身を捩る。
「見えますから、降ろして下さい」
「本当に、ちゃんと見えましたか」
「見ました、見えました!見えましたから」

トクマンはようやく笑うと、ゆっくりハナ殿を地へ戻した。
「キョンヒ様は、大丈夫だったでしょう」
「・・・はい。ありがとうございます」
額に汗を浮かべたトクマンに、ハナ殿が困り果てた顔で頭を下げる。

「良かった。じゃあ、ハナ殿の買い物に戻りましょう」
「・・・でも、姫様が」
「見えたとおっしゃったでしょう。あのお二人、今は二人きりの方が良いと思いませんか」

向かい合い、何か声を交わしている二人の姿。
珍しく興奮しているのはチュンソクで、敬姫様は諌めるよう首を傾げ困ったように笑んでおられる。
周囲に怪しい気配もないと判じ、俺は横の小さな背へ掌を添える。
「イムジャ」
「うん」

人波の中、この方の背丈ならあの二人の姿を見つけやすいのだろう。
俺達と同じ方角を見つめていた瞳が戻り、この眸を見上げて笑んだ。
「この辺で買い物しながら待ちましょ」
「はい」

頷く俺を確かめると、いきなり細い背が往来の中へと飛び出す。
「夜市制覇よ!ハナさん、トクマン君、後でね!」
その背を追う人波の中、最後にトクマンへ振り返る。

「侍女殿を守れ。逸れるな」
「お任せください!」
叫ぶトクマンに顎で頷き、往来へ紛れそうな亜麻色の髪だけを追う。
こうしていつでも先に走る方。俺に追い駆けさせる方。
細い肩を指先に掴まえ、横へと並ぶ。

「一人で行くなと」
「だってこうでもしないと、トクマン君の邪魔になっちゃうでしょ?ハナさんと2人っきりになりたそうだったもの」

悪戯そうな鳶色の瞳を輝かせ、この方は今走って来たばかりの方角を愉し気に振り返る。
「なんか良いなあ。パピーラブって感じよねえ」
「ぱぴーらぶ」
「子供の頃の初恋って意味かな。トクマン君、そんな感じじゃない?」

あんなでかい子供など居てたまるものか。
あの石頭の頑固者の想いの成就ひとつにこれ程の騒ぎだった。
次にあのお調子者の騒ぎでも起これば、もう面倒は見られん。

何より問題はこの方だ。
周囲の者の心見えているのに、肝心の俺を置き去りに走るというのが得心が行かん。
「周りの事より」
「はい?」
「俺の事を」

夏の夜市の騒めきに、己の声は思うたよりも拗ねて聞こえる。
この方は頷いてこの指の間に細い指をくぐらせ、確りと握る。
敬姫様と違うのは、繋いだ手を袖の下で隠そうとはせぬ事だ。
これではあの幼かった姫様に諭される日が来るのも近かろう。

温 良 恭 倹 譲。
温和で情に厚く善良、慎み深く自制があり、謙遜謙譲の人柄。
そんなあいつだから俺を此処まで支えて来てくれた。
論語の五徳を備える頑固者が、此処まで時間を掛けた想いだ。
これからはあの二人もうまく行く。

そして五徳と無縁の己には、この天界の方さえ横にいて下されば良い。
例え染まらずとも、この世の作法を知らずとも、如何に天衣無縫でも。
それでもこの眸にはこの方しか見えん。この方だけ見えていれば良い。
今迄もこれからも、俺達は俺達の速さで進んでいく。

「参りましょう」
「うん!」

夜市を彩り揺れる提灯の下。
この方は嬉し気に頷くと、この手を握りしめたまま歩き始めた。

 

 

【 2016 再開祭 | 五徳  ~ Fin ~ 】

 

 


 

 

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