2016 再開祭 | 薄・結篇(終)

 

 

迂達赤兵舎の窓の外は、すっかり秋の気配が濃くなっていた。
「都が騒がしい」
兵舎の私室で向き合うチェ・ヨンの声にチュンソクは頷いた。
「ええ。医仙と云い、徳成府院君と云い」

口にした当人にはそんな積りは全くないのだろう。
しかし痛い処を突かれた気がして、チェ・ヨンはむっつりと黙り込む。

天の医官に刺された腹の傷が癒える間もなく、当の女人は奇轍に掠め取られた。
半死半生で迎えに出向けば、そのまま共に江華島へ送られた。

女人に腹を刺された時から、もしチュホンに跨っていなければ無事開京まで辿り着けたかどうかすらも怪しい。
賢い愛馬は腹を割かれて半死で鞍に跨るチェ・ヨンを揺らさぬよう、細心の注意を払った足取りで進んでいた。

一団の先頭を切るチェ・ヨンが声を飛ばさず、手綱を振らずとも、愛馬はまるでその声を聞き取り手綱に導かれるように、間違いない道を選んで帰路を辿った。

そして攫われた天の医官を迎えに出向いた時も、江華島への途も、確実にチェ・ヨンを運んだ。
江華島の二人だけの部屋の中、仕えて来た慶昌君の最期を人知れず預かった時にも。
そうなるように仕向けた奇轍の奸計に堕ち、官軍に包囲され牢車で開京に戻された時にも。

周囲に事が起こるたび中心にいるのはあの天の女人、そして奇轍の両名だった。

奇轍ならば刺し違えを覚悟で斬れば済む。
何れにしろ暫くは皇宮から逃げられない。
自分の決断である以上、チェ・ヨンは誰に愚痴を吐く気もない。
但しと、愚痴の代わりに太い溜息を吐く。

あの天人だ、問題は。

高麗の事も皇宮の状況も何一つ知らず、馬にすら禄に跨れぬくせに何かに付け口を挟んで来る。
黙っていられないのか。それとも医官のくせに知恵が足りぬのか。
放って置けば早晩奇轍の毒牙の餌食になることは目に見えている。

あの時もそうだったと苦々しく思い出す。
奇轍の邸から江華島への途、テマンの牽いた二頭の馬の一頭を前に、あの天人は動くなと言った。
足を助けて鞍上に押し上げれば、次は体を起こせないと。
ようやく体を起こせば、次は山中に響く笑い声を上げた。

碌でもない者を拾ったと悔いても後の祭。
名を懸けた以上、無事に返す義務がある。
馬に動くなと言う頓狂な天人であろうと。

せめてあの天人が愛馬に跨らぬ事を祈るばかりだと、チェ・ヨンは眉間を押さえる。
唯ですらチェ・ヨン以外には懐きにくいチュホンの鞍上で大声を上げれば、賢い愛馬は天人を見るたび蹴るようになる。
天人が怪我をするのも、それを理由に愛馬を罰するのも御免だ。

その肚裡を読めないチュンソクは、黙り込んだチェ・ヨンに遠慮するように姿勢を正し、何か少しでも読み取ろうと大きな掌に半ば覆われた隙間の表情を伺った。

 

*****

 

血の滴る剣を下げ、チェ・ヨンが一団の先頭を陣へと戻って来る。
煌々と篝火を焚く門を守る国境隊の兵が頭を下げると大きく開いた門扉を、疲れを知らない脚取りのチュホンが駆け抜けた。

手綱を引かれる前にいつもの厩舎の前で自ら脚を止めたチュホンの背から降りると、チェ・ヨンが首を撫でる。
機嫌を良くしたチュホンの鞍横に結び付けていた革袋を外し、片手に下げる。

チュホンは厩舎の守兵に牽かれながら、汗に濡れた体を洗うため裏手の井戸の方へ姿を消した。
それを確かめてからチェ・ヨンは本隊の天幕へと歩き出す。
下げた袋の底から革を染み通った赤黒い雫が地に点々と跡を残す。
その半歩横に駆って来た馬の鞍を飛び降りたテマンが従く。

「大護軍」
天幕の入口を捲り二人が中へ踏み込むと、国境隊長が頭を下げた。
「お帰りなさい。如何でしたか」

周辺の故領二箇所の基地を一度に攻めた所為で、チェ・ヨンとは別隊を率いた国境隊長の問いに、無言で片手に下げていた革袋を掲げて見せる。
革を染み通る雫がなければ、首級が収められていると気付く者は少ないだろう。
袋を下げたチェ・ヨンはそれ程に静かな表情を浮かべている。

軍監が恭しく一礼し掲げた袋を預かると、首洗いの井戸へ運ぶため急ぎ足で天幕を出て行った。
その背を見送った国境隊長は、まるで自分の手柄の如く誇らしげに笑う。
チェ・ヨンは無駄口は一切叩かず、国境隊長に問い返す。
「其方は如何だ」
「陥落しました。明日にはこの野営を引き払います」

チェ・ヨンは無言で頷くと、血に染まった手を洗おうと今入った天幕の入口を出た。
その横には入って来た時と同じく影のようにテマンが添った。

野営の陣内、点々と揺れる篝火を避けるよう、チェ・ヨンは闇を闇をと選んで歩く。
「テマナ」
声が下草を踏む足音に消されぬように、テマンは耳を澄ます。
「はい、大護軍」
「・・・未だ三つ」

それが何を指しているのか、テマンにはすぐに判った。
国境の故領に未だに残る元の八つの軍拠点のうち、奪還出来たのはこれで三か所だった。
「はい」

頷いたテマンには痛いほど判っていた。
どうしてチェ・ヨンがこんなに自らを駆り立てるのか。
北へ北へと行きたがるのか。
明日陣を解けば、また真直ぐにあの丘に向かうに違いない。

医仙。

テマンは心の中で呼びながら、闇を選ぶせいで見やすくなった夜空に浮かぶ月を見上げる。

医仙。

テマンの呼び声が届く筈もないのに。其処を横切るように一筋だけ星が流れた。

 

「ん、どうした」

いつもなら馬房に収め次第穏やかに目を閉じる馬の様子が違う事に、国境隊の馬守はすぐに気付いた。

国境隊だけでない、高麗の兵の全員が尊敬し憧れる迂達赤大護軍の愛馬を守れるだけでも誉れだった。
陣に大護軍が到着して以来、その様子は事細かに観察している。
毎日のように出陣する以上愛馬に僅かでも異変があれば、それは大護軍の命を危険に曝すに等しい大罪だった。

いつもなら目を閉じるはずのその愛馬は長い睫毛を開き、大きな目で馬房の屋根の上をじっと見つめていた。
そして馬守は其処に信じられないものを見て、幾度も目を瞬いた。

馬は大きな黒い瞳から、涙を零していた。

最初は偶さかかとも思った。虫か砂粒が入ったのかと。
しかしそれなら瞬きをするはずだった。何が入ろうとそれで外に押し出されるのに。
何処か怪我したのかとも疑った。自分が見逃したかと。
しかし馬房を松明で照らして二人掛かりで蹄の間まで確かめても、艶のある馬体には掠り傷一つ見当たらない。
大護軍の愛馬は検分を嫌がる素振りはない。大人しく馬房に立ったままで、静かに涙を零していた。

「大護軍をお呼びしようか」
不安に思ったのだろうもう一人の馬守が額に汗を浮かべて訊いた。
「それは最後だ。大護軍もお疲れなんだぞ、俺達で出来る事を」
馬守がそう相方を叱り飛ばした時。

愛馬チュホンは空を見上げたままで嘶いた。

戦場に慣れたチェ・ヨンの愛馬が滅多に声を上げない事を馬守兵たちは皆知っていた。
愛馬の嘶きに無言で顔を見合わせ、二人の馬守は体を固くした。
「・・・どうしたんだ」

それ以上暴れる訳でも、荒ぶる訳でもない。
黒い夜空を見上げたまま嘶く愛馬を落ち着かせようと、馬守の一人が背を撫でる。
「何か悲しいことがあったのか」

泣けない誰かの代りのように、心を絞るように、 闇の中で誰かを呼ぶように。

答えない月に向かって首を擡げ、チュホンは嘶き続けていた。

夜の帳の中で、その嘶きが揺らすように白い薄の穂が揺れた。

 

 

【 2016 再開祭 | 薄 ~ Fin ~ 】

 

 

 

 

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