2016 再開祭 | 薄・後篇

 

 

「・・・・・・隊長様」

初夏の緑をゆっくりと食む若駒の横で司畜営官は鞍一式を手に、枯れた声で囁いた。
穏やかな馬場の一角、爽風には似つかわしくない緊張した空気が流れる。

鞍付けを嫌う馬もいる事はチェ・ヨンも知っていた。
しかしそこで躓けば軍馬は疎か、兵站馬への道も閉ざされる。

人馬一体と云うが、人を乗せ戦場を駈けるにも、人の指示で物を運ぶにも、鞍を付け走れる事が最低の条件だった。
それが出来ぬようではいくら賢かろうと戦場へ連れ出せない。
賢いが故に、初めて鞍を乗せた時を記憶する馬は多い。
そこで厭な思いをすれば、鞍付けのたび思い出して結局ものにはならない。

長い経験からそれを知る官は、決して鞍付けを急く事はない。
若馬に添い、言葉を掛けつつ馬体を撫でて落ち着かせ、馬の背に直接鞍が触れぬように綿入れ胴着を着せかけ、その上に鞍を掛ける念の入れようだった。

其処までしても、若駒と同じ昨春に生まれた十数頭のうち、既に一頭は鞍付け途中で怯えて跳ね、脚を痛めている。
あれはもう軍馬としては使えぬだろうと厩舎中が噂で溢れた。
チェ・ヨンが特別目を掛ける若駒をその二の舞にはさせられぬと、営官も強張った面持ちでチェ・ヨンに頭を下げる。

ああ成程と、チェ・ヨンは初めて思い至った。

こんな風に緊張した時、確かに名を呼んで落ち着かせ鞍を付けてやれれば、人馬共に気が楽なのだと。

此処で躓き、今までの季節と鍛錬を無駄にするな。
こんな狭い窮屈な場所で終わらず、自由を手にして本来の馬らしくいつか再び、広く大きな空の下を駆けられるように。
縛られる苦しさは、チェ・ヨンにも痛いほど判る。

自分が手に入れられない分まで、お前は自由に伸び伸びと走れ

「周洪」

チュホンと呼んだチェ・ヨンに、立てていた若駒の耳が向いた。
「チュホン、鞍を付ける」

まるでその時を待っていたかのように、名を授かった若駒は素直に脇腹をチェ・ヨンの前に見せる。
「善し」

その首を撫でたチェ・ヨンは営官の手の綿入れ胴着を受け取ると、背の上に置いて、胴に廻した紐を締めていく。
表情を確かめても、黒く大きな目は到底初めてとは思えぬほどに落ち着いた色をしていた。

苦しいかと尋ねるように僅かに首を傾けたチェ・ヨンに向けて、大丈夫だというようにチュホンは尾を上げゆっくり左右へ振った。
胴着に触れても厭がる様子は全くない。

それを確かめ次に鞍を乗せ、背の上で静かに少し動かしてみる。
チュホンは寧ろ楽しむように、そして早く跨れとねだるように、いつもと同じく脇腹を向けてチェ・ヨンへ首を伸ばし、初めて甘えるようにその肩に頭を預けた。

 

*****

 

「隊長」
全ての配置が完了した馬場の中、チュンソクが小声で呼んだ。

盛夏の容赦なく照り付ける陽の下で、手に手に武具を持つ迂達赤が馬場に並ぶ。
この暑さの中で鎧まで着込めば、それぞれの額から汗が滴り落ちるのも当然だった。
そして馬場には彼方此方に、人の大きさの藁俵が転がしてある。

避けて通れるものではない。
鞍付けに慣れた若駒も、そして既に幾度も戦場を共にした古馬も、今日は鞍を背に馬場に出ていた。
迂達赤の半数はそれぞれの馬の横、騎乗の合図を待っている。
残り半数は武具を手に、柵に沿って馬場の周囲を囲んでいた。
チェ・ヨンが視線を送ると、それを受けたチュンソクが頷き返し
「騎乗!!」
とひと声大きく咆えた。

その途端、今まで降るように響いていた蝉声すら聞こえなくなる。

馬の横で待機していた迂達赤はわざと鎧の音を響かせながら乱暴に鐙を踏み鳴らし、その鞍上にどかりと跨る。
チェ・ヨンは真先にそうしてチュホンの鞍に飛び乗った。
同時に馬場を囲む迂達赤は、それぞれの手にした武具を力一杯打ち鳴らす。
持っている槍や剣で盾を叩き、鎧を打ち、弓の弦を弾き、人ですら耳を塞ぎたくなるような煩さだ。

チュンソクの咆え声と擦れる鉄の音。
突然騒々しくなった馬場では驚いて前脚を掻き、中には後脚で立ち上がる馬もいた。
柵外で一部始終を見守る営官が、どの馬がどんな動きをするのかを具に確かめている。

そんな騒ぎの中に司畜営の奴がすかさず入って来ると、樽に貯めていた牛や豚の血を地面に撒き散らす。
まさにそれは突然起きた戦場さながらの光景だった。
幾度も戦場に出た古馬でも、中には落ち着きを失うものがいた。
鞍に跨る迂達赤は武具を片手に振り落とされぬよう、そして馬を落ち着かせるよう宥めるのに四苦八苦していた。

兵にも馬にも重要な鍛錬故に手を抜く事は許されない。
そんな騒乱の中、チェ・ヨンは驚いて眸を瞠る。
チュホンは全く動じずに確かに一瞬首を傾けると、その背に跨るチェ・ヨンを見、手綱を振ってもいないのに一団を率いるように前へ進み出ると、馬場の中を駈け始める。
出鱈目に駆けているのではない、柵に沿い自信に満ちた駈歩で。

馬は生来集団で生活している。一頭の行動を他の馬が真似るのは本能だった。
チュホンが先頭を駈け始めた事で、今まで落ち着きを失っていた他の馬が付和雷同し、その背を追って必死に走り始める。

本来ならばそれは群の頭、戦に慣れた古馬の役だった。
チェ・ヨンが鞍上から振り向けば、今はその古馬も群れを率いるチュホンの後を、安心した顔で駆けていた。

浮かんだ夏の汗は、鞍上の風であっという間に引いていく。
チュホンはチェ・ヨンが手綱を引いて止めるまで、耳を劈く音の響く馬場を、血の匂いに怯える事もなく自在に駆け回っていた。

 

*****

 

「精鋭を集めろ」
兵舎へ戻ったチェ・ヨンの低い声は、慣れたはずのチュンソクですら聞き逃すほどだった。
そのまま振り向きもせず階を登って行く麒麟鎧の背が怒っている。

すこぶる機嫌が悪い。こんな時には触らぬ神に祟りなしだ。
そう感じたチュンソクは
「は」
とだけ返し、急いで兵舎を駆け出した。

「王様が謫居される」
慌てて集まった迂達赤精鋭を前に相変わらず何の感情もなく淡々と呟くと、チェ・ヨンはそのまま生木段へ横たわった。
「その後、元より新王が来る。目立たぬ護衛が必要だ。精鋭二十と四名でお迎えに行く」
目を閉じたその口から出た余りに少な過ぎる数に、部屋内は静まり返り、横になったチェ・ヨンをじっと見た。

不機嫌極まりない隊長の態度の理由が判ったと、チュンソクは太く息を吐き肩を落とした。
「隊長・・・」
自分の耳を疑うようにトルベが恐る恐る呟いた。

「元を横切って新王をお連れするのに、二十四人とは」
チュソクがその声の後を継ぎ、唸り声を上げる。

「新しい王様には、王妃様もおいでなのではないですか」
まだ経験の浅いトクマンは動揺した声を顰めた。

「隊長の決めた事ではない。泣き言の前に人員を選ぶぞ」
繰り返される愚痴を遮るようにチュンソクが一喝し、精鋭は全員がようやく黙って頷いた。

「チャン侍医が医官を連れて同行するが、期待するなよ」
留めの一言を吐き捨てると目許を隠し、チェ・ヨンは直に本格的な寝息を立て始めた。

 

 

 

 

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