2016再開祭 | 蔥蘭・結篇【対決】

 

 

 

女の足音に小男が酔った目を上げて初めて周囲を眺め、笠を脱いだこの方の上で視線を止める。

この方は交わした約束通り、動く事も叫び出す事も、男に一瞥をくれる事もなく、背筋を伸ばして微動だにせず座ったままだ。
ただ卓に置く小さな両拳だけが、怒りのまま小刻みに震えている。
「ほほう」

既に酒で赤らんでいた男の目に、明らかに酔いとは違う色が走った。

寄るな。

この心裡の声は叶わず男は音を立てて椅子から立つと、千鳥足で此方の卓へ寄って来る。

来るなよ。

「何だ、こんな鄙にも良い女がいるんだな」

・・・それ以上近寄るな。

「おい女。こっちに来て酌をしろ」

小男は畏れ知らずにも言いながら、この方へ向けて手を伸ばす。
その汚い指が細い肩まで三尺に寄った処でこの掌は立て掛けた鬼剣の柄を迷いなく握り、脚が椅子を蹴り立った。

蹴った椅子が勢いで床に倒れる。
その瞬きの間にこの方を背に男に対峙する。
同時に小男の横の卓から腰を浮かせていた女がこの方の脇へと寄り、そして墨染衣が店の入口を塞ぐ。

周囲の他の客らは息を呑み、立ち上がった俺と小男を見比べた。
事情を呑み込めぬのは当の偽者二人だけらしい。
偽の女は金切り声で
「ちょっとあんた、あたしがいるのに他の女に色目を」
と叫ぶ。小男はそんな声など意に関さぬ様子で
「有り難く思え、大護軍チェ・ヨンが誘っているんだ。女、顔を見せてみろ!」

そう言って立ち塞がる邪魔者の俺を押し退けようとした。

此方へ延ばした手を掴み、その勢いで跳ね上げ小男の背へ回すと一寸も動かせぬようその肩から捩じり上げる。
たったこれだけの挙動で男は為す術もなく動きを止めた。
チェ・ヨンを名乗る割には武術の心得は全くないらしい。
昨日今日迂達赤の門を叩いた新入りの方が余程使い物になる。

男はいとも容易に背後を取られ、そのまま半身を返されてこの方と俺へ背を向けた格好になり
「無礼者!俺を誰だと思っている!命が惜しければ手を離せ!」
と、哀れな格好で無謀にも叫んだ。

「迂達赤大護軍チェ・ヨン相手にこんな狼藉を働いて、只で済むと思うのか!」
「・・・ああ」
成程。
武の心得はなくともその名さえ上げれば、相手が恐れて退いて来た訳か。
思わず片頬に皮肉な笑みを浮かべ、素直に首を振る。

「思わんな」
「それならさっさとこの手を離せ!」
「そうか」
離せというなら離してやらねばな。何事も素直が一番だ。
その背に廻し握っていた腕ごと小男を思い切り突き放す。
小男はもんどり打って卓にぶつかりながら酒楼の床へ倒れ込み、そのせいで自分らの卓上に載っていた酒瓶や皿が落ちて割れる。

「割れた皿の分も払えよ」
床で粉々に砕けた器の欠片に埋まった小男に吐き捨てると
「この野郎、何をふざけた事を」
この声に床に這い蹲った小男が、憎々し気な目を上げる。

その顎をほんの軽く沓の爪先で蹴り飛ばすと、それだけで小男は両手で顎を抑えて悲鳴を漏らし、苦悶の表情を浮かべた。
このチェ・ヨンは基本がなっておらん。
地に転がされた時には、這い蹲って無駄口を叩く前に立ち上がれ。
出来ぬなら立ち上がる隙が生まれるまで、まず急所を庇うものだ。
この分ではもし本気で蹴った時には、奴の歯は全て折れただろう。

「て、大護軍様!チェ・ヨン様!!」
奥から先刻の女に連れられて、酒楼の主らしき男が飛び出して来て俺の前で床に膝を着き、深々と頭を下げた。
「必ず来て下さると」
どうやら主は俺の顔を見知っているらしい。此処ではまずい。
「判った!」

慌てて手を貸し立ち上がらせると、主は不得要領な顔で俺を見た。
「て、大護軍様」
「連れに先に手を出したのは其処のチェ・ヨンだ。俺が暴れた罪については、郡の司憲府で明かす。職事官・・・殿、に会わせてくれ」
「何をおっしゃるんですか!」

主は俺が何を口走っているのかと、俺の顔と床の偽者の間で視線を泳がせ、顔色を変えて首を振る。
「まさか、大護軍様を官軍に突き出すなんてとんでもない!!」
「いや、今すぐに呼べ!」
転がっていた床からそう叫び、爪先に蹴られて口端に血を滲ませた男がようやく身を起こした。

「大護軍チェ・ヨンに手を出したんだ、せいぜい命乞いの言い訳の一つも考えておくんだな!!」
その声に主は蔑みの目を向け、あの方が再び血相を変え、それを横の女が押し留め、そして男が店から逃げ出さぬよう入口を塞いでいたヒドは、救いようがないという昏い眼で酒楼の天井を仰いだ。
しかし官軍と言われて怯まぬ処を見れば、武術の心得はなくとも何かしらの手は打っているのだろう。王様のおっしゃった通り。

――― 偽者を騙るより、本人と証を立てる方が往々にして難い。

我が主君は、あのお若さでさすがによく御存知だった。
大切な名を騙られ頭に血の上った気短な家臣とは違う。
では見せてみろ、俺を目前にチェ・ヨンの証をどう立てるのか。

「頼む主、官軍を」
「・・・畏まりました」
主は訳が判らないと首を捻りながらも、先刻の注文聞きの女に表の官軍に声を掛けるようにと促した。
女は戸惑い顔で、それでもヒドが一歩退いた扉から走って表へと飛び出していく。

さっさと呼べと大声で居直る男に、もう一発蹴りを見舞いたいのをどうにか堪え、卓に戻ると眸で叱りながらこの方に笠を手渡す。
あなたは笠を受け取ると三日月の瞳で俺を見上げ、ごめんと言わんばかりに小さな掌を顔の前に立てて見せた。
視線を逸らす俺の袖を細い指が握り、ねだるように左右に揺らす。

男の注意を引きつけ動きを起こさせる為に笠を脱いだろう。
あなたの肚裡は判っている。だから今俺は怒っているんだ。
あなたの無謀さにではない。身の程知らずにあなたに触れようとしたこの薄汚い小男の図々しい指を切り落としたい程に。
どんなに愛嬌を振り撒いても無駄だ。その顔は止めてくれ。
肚の中で沸点を超えた怒りが、音を立てて萎んでいくから。

官軍なり職事官なり郡守なり、誰かと会って真相を明かすまではもう暫し、ふてぶてしい偽者に肚を立てておかねばならん。

 

 

 

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