ヨンの指先から辛うじて身を躱すと、態勢を立て直す間もなく次に足が飛ばされる。
その場で跳んで低い蹴りを避け、ようやく奴と向かい合う。
烈しさを増す雨の向こう、奴は恐ろしいほど冷静な表情で間合いを計っている。
その頭上で空が白く光り、低く重い雷鳴が轟いた。
しかし今の俺は、それに気を取られるゆとりなど全くない。
今の奴の攻めは、取組が始まった時とは別人のようだ。
俺の繰り出す手を読み速度に合わせ、己の速度を上げている。
滅多に切れた憶えのない息が、今回ばかりは切れて来た。
こ奴の手はこれ程速くも、鋭くもなかったはずなのに。
考えた瞬間に、奴の腕が再び此方へ伸びる。
伸ばされた腕を内から払って逆に取ろうとした時、奴は肩ごと体を大きく廻してこの指先から抜け出すと、再び涼しい顔で俺を見る。
隊長に起きた悪夢。赤月隊の解隊から十年。
それでもこ奴はあの時に、既に廿を超えていた。
如何に武技の達人、どれ程優れた内功遣いとはいえ、永遠に技量が伸び続けられる筈もない。
人の体は老いて行く。運気調息にどれ程優れておろうとも、老いの下り坂が緩くなるだけだ。
その衰えた体力を、戦場で得た老成持重の知恵で補うのが定石だろう。
それともこの男には、常識など通じぬというのか。
次に繰り出した掌打は確実に奴の胸を捉えていた。
それでも打ち込んだ先、その体は既に消えている。
奴は先刻まで立っていた処からほんの半寸ずれた場所から、再び腕を伸ばして来る。
組合おうとして躱され、掴もうとして払われ、突いた先からは消えている。
これではまるでヨンの影と組合っているようだ。
雨の中、攻めあぐねて俺は息を吐く。
ヒドの歯の隙間から鋭く小さな息が漏れる。
その音と共に繰り出す蹴りを受け、左腕の筋が軋む音を立てた。
気が付いている。奴は手甲を脱ぎながら風功を遣わぬようにと、気の何処かが逸れている。
しかしどうしてやりようもない。
そのまま奴の襟を掴んで引き寄せ、その腹へ膝を打ち込む。
そして打ち込んだ後の間合いを取ろうと軸足を引いた時、足首を奴の蹴りで払われる。
足首の重い痛みで態勢を崩しかけた俺に、ヒドの体が圧し掛かる。
そうだ、鍛錬じゃない。角力だった。地に背を着ければ負ける。
圧し掛かる体を突いて痛む足を軸に体を翻し、その腕から抜け出すと、奴は空になった腕の中を呆然とした顔で確かめた。
其処に生まれた一瞬の隙。
そのまま右足に体重を乗せ、膝を狙って蹴りを放つ。
読まれていたのだろう、ヒドは飛び退りその足先から身を躱す。
ヒド、お前が読んでいると知っている。
低い蹴りで飛んだヒドが着地する前に、俺は囮の右足を振った勢いを利用し、先刻傷めた左足を思い切り振り上げて次の蹴りを放つ。
高々と上げた左足の爪先から、雨の雫が飛び散った。
その踵を受けたヒドの肩が厭な音で鳴り、奴はこの取組で初めて地に膝を折った。
そのまま此度は俺がその体に圧し掛かる。
抜け出せぬように、そして今の蹴りで傷めたかも知れん肩が地面に当たらぬようにと、この両腕で固めて庇いそのまま地に引き倒す。
奴は地に倒れたまま、その顔を空に向けていた。
小さく息を弾ませ、落ちて来る雨粒とも汗ともつかぬ雫が顔中を滑り落ちていった。
奴が見上げる空の上、先刻より近く雷鳴が響いていた。
そして雨は烈しく音を立て暗い空から打ち付けていた。
同じように息を切らし、俺は上から滑り落ちる雫を目で追った。
そして気付いた。
滑り落ちる雫の幾滴かは、己の濡れた毛先から奴の顔へと落ちている事に。
「ああ」
ヒドは雨に打たれながら何故か心地良さそうに、その瞼を閉じた。
「強くなりおって」
「ヒド、肩は」
両腕を廻して庇ったとはいえ、本気で振り下ろした。
当たった時点で骨や筋を傷めたとも限らん。しかし奴は苦く笑うと
「まずは退け。重い」
慌てて奴の上から身を起こした俺を確かめて、次にヒドが泥中から軽々と飛び起きる。
両肩を廻し、次に両肘を廻し、最後に両腕を天に向けて高く掲げ
「これで安堵したろう。お主の蹴りは喰らい慣れている」
と、渋い顔で頷いた。
周囲の観衆が大声で何か喚いている。
まず最初に駆け付けたのはテマン。脇から手を伸ばしたシウルとチホ。
その周囲に次々と、幾重にも観衆が押し寄せる。
口々に何か言っている。その声が耳に届かない。
輪の中心で互いに顔を見合わせ苦笑いを交わす。
改めてその肩へ腕を回すと、さすがのヒドも顔を顰めた。
「今更だが、痛い」
「満身創痍という奴だ」
ヒドは改めて己の泥塗れの黒染衣を、そして泥を含んで重く垂れる俺の藍の上下に眼を遣って
「酷い有様だな。まず水浴びを」
と呟いた。その時
「何ノンキなこと言ってるの!!まずは治療よ、お2人さん!!」
飛んできた鋭い声に、俺達は同時に周囲の人垣へ振り返った。

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勝敗よりも
治療、治療!
早く治さなくっちゃね
ヒドも ヨンに負けるのなら
本望かしらね
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お二人さん。
ウンスに誤魔化しは通用しないですよ(笑)
ヨンは足を、ヒドは肩を
治療してもらってね(^^)
「強くなりおって」
「まずは退け。重い」
ヒドの言葉。良いですね~❤
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「強くなりおって。」
ヒドさ~ん、かっこよかったで~す。
ヒドさんは、やはり強い!
でも、気持ちよく 負けたのね…
「強くなりおって。」
に、ヒドさんの優しさ感じますよ。
弟ヨンの強さを温かく素直に認める、兄。
満身創痍…かぁ…
ヨンは足首を、ヒドさんは肩を。
二人とも、びしょびしょ、どろだらけ。
ウンスに治療して貰おうね。
ウンスは、二人に何と声をかけてあげるのかな。
ヨンがこれほど手こずる相手、それは、ヒド。
やっぱり、二人は、心の兄弟ですね。
ヒドがいるので、そっと…
ヨン、ユウショウ、オメデトウ !
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取り組み中もう勝敗より互いの技量比べになっているのかも(((((((・・;)互いに赤穂隊?(漢字間違えていたらご免なさいm(__)m)時代の両者を思いだし比べている…月日は経ち年とともに体はは老いるが…二人は…違うのかな(((((((・・;)?医仙ウンスの目は誤魔化せないようで(^_^;)二人大丈夫かな?