2016 再開祭 | 気魂合競・卌柒

 

 

王妃媽媽が文に目を通される間。
御部屋内は静まり返り、雨音だけが響き渡っていた。
王様は王妃媽媽を無言で見つめ、チェ尚宮殿は目を伏せてまるで調度品の一部かのように微動だにせず、そして大護軍は王様と王妃媽媽をじっと見ていた。
「托克托・・・」

王妃媽媽は文を食い入るよう読まれた後、それを持つお手をお膝の上に落とされた。
まるで薄紙一枚を持ち上げ続けるのも、大儀であられるかのように。
「王様・・・」
「寡人も幾度か目にした事がある。托克托殿が中書右丞相の頃だ。公文書では絶対に使わぬ落款をお持ちだった。チェ・ヨン」
「は」

王様の緊張を孕んだお声に、大護軍は小さく顎を下げる。
「判るように申せ。目にした者は多くない、模造を避ける故に。
何故そなたが、その落款を附いた文を持っておる。運んだのは誰だ。その者は、何処におるのだ」
「此度の角力大会にて偶然この文を運んだ者と取組を。その者が怪我を負い、医仙の治療の折に渡されました。
今は開京外廓の荒家に」
「王妃」
「はい、王様」

王様の厳しい御声に、王妃媽媽が静かに頷かれた。
「寡人の目に狂いがなくば、この筆跡と落款は托克托殿のもの。どうお思いか」
「おっしゃる通りです、王様」
「では、托克托殿は」

王様はそこで口を噤まれ、王妃媽媽は無言で王様をご覧になる。
「王様」

室内の沈黙を破るように、大護軍が低く声を続ける。
「托克托殿よりの書簡であれば、遣いは元の宮廷にも近いかと。
生かしますか。殺しますか。それとも」

言葉を切った大護軍は、勝算ありと踏んだのだろう。恐らく王様のお答えが判っていて確かめておられる。
無表情のままで、最後に低く王様へ伺った。
「まずは事情を確かめますか」
「托克托殿が書かれた通りだ。その者らはそなたに預けられた。そなたに一任しよう。善きに計らいなさい」
「は」

そこまでの王様のお声を確かめると、大護軍は短く頷く。
その時石のように身動ぎもせず無言を貫いていたチェ尚宮殿が、初めて声を発した。
「迂達赤大護軍」
大護軍は諫め声にごく小さな息を吐くと、静かに席を立つ。
「では、繋ぎを」
「今これからか」
「は」

王様は玉座から腰を上げた大護軍を見上げ
「チェ・ヨン」
珍しく大護軍ではなく、その名を呼ばれる。
「思わぬ拾い物とは言ったが・・・大き過ぎはせぬか」

そんな謎かけのような王様のお言葉に頷くと
「竿にかかる魚は選べませぬ」
更に謎めいた呟きを残し、大護軍は視線を下げ音も立てず康安殿を退出していった。

 

*****

 

これ以上一刻の無駄も出来ない。二日に及ぶ角力が最たるものだ。
考えかけて思い直す。
大会がなくば、こうして托克托の戦士に会う事もなかった。
転禍為福。少なくとも拾い物をした。
そして王様の仰るとおり、それは手に余る大きさだった。

愛馬は正面から叩きつける雨を長い睫毛で避け、全く人気のない開京大路の真中を、泥を跳ね上げ駆け抜ける。
斜め後をテマンの駆る馬が、必死の形相で追い縋る。

厚い雲で覆われた空は陽が落ちた今、墨を流したように暗かった。
皇庭の石燈籠は土砂降りを透かすのを諦めたよう、点々と濡れた影になって立っていた。

今日は一体幾度身を清め、衣を着替えれば良いのか。
次の晴れ間の洗濯場はきっと芋洗いの混雑ぶりだろう。
今日二度目の拝謁の為、康安殿への回廊を急ぐ。

しかしその晴れ間は暫く訪れそうもない。
たっぷり水を張った桶を勢い良く返したような雨が、回廊の天井を打ち鳴らす。
其処から瓦を伝う滝さながらの烈しい水が、軒下に深い溝を穿つ。

雷が連れて来た豪雨は乾ききった皇庭の土をあっと言う間に潤し、今は彼方此方に小さな川となって流れていた。
これでは幾ら身仕舞を整えようと、御前に出る前にまた濡れる。

せめて見苦しく濡れるのは避けようと、雨除け外套の衿元の頭巾を引き上げて被り直し、雨の吹き込む回廊を俺は足早に抜けた。

「迂達赤大護軍様」
待たれていたのだろう。
最後の廊下の角を曲がった途端、既に夜の歩哨の守る突当りの扉横にいた内官長が小さな声で呼んだ。
「王様がお待ちです。どうぞ」

頭巾を引き下ろし外套を脱ぐと、その手で引かれた扉を入る。
まるで退出した時と同じ様子で、王様と王妃媽媽、そして叔母上が此方をご覧になる。
異なるのは先刻は俺の横にいたチュンソクが、今は鎧姿で王様の横を守っている事だった。
「戻ったか」
「は」
「雨の中、足労であった。座りなさい」

その御許しに、先刻と同じく玉座の右手の椅子へ腰を降ろす。
王様は待ち兼ねたご様子で
「何か判ったか」
と、畳み掛けるようにお尋ねになった。

昼のうちに手裏房を走らせておいた甲斐があった。
案内された通りの荒家の中、待っていた托克托の戦士と交わした会話を思い出し、持ち帰ったばかりの憂鬱な報せに小さく頷く。

「托克托殿は、毒殺されたと」

回り道をしようと真直ぐ行こうと、答は変わらぬ。
それでも俺の即答に王様と王妃媽媽の表情が凍る。

あの頃共に戦場を駆けた。武人としての手腕はよく知っている。
まして如何なる理由があれど、武人を弑すのに毒を用いるなど。
戦士らが泣くのも当然だ。そして托克托は泣いても泣ききれまい。
元という大国の中央軍を率いた将軍が、仕掛けられた毒で死んだ。

あの最後の夜の、托克托の言葉。

勝って勝ち過ぎた。

一体どうしろと言うのだ。
負ければ敵の手で、勝てばその御為にと戦って来た者の手で、結局殺されるなら。

「哈麻という臣の讒言を真に受けたトゴン・テムルが」
その報せに、王妃媽媽の御顔色が変わる。
王様も何かを御存じなのか、今この口が吐いた名に茫然と繰り返される。
「哈麻と言ったか、チェ・ヨン」
「は」
「・・・元が終わる」

反旗を翻したとはいえ、元宗主国。
一国の存亡に係る一言も市井の民が噂話程度に口にするのと、王様の御口から発せられる金言では全く意味が違う。

「王様」
「チェ・ヨン。そなたの拾い物はそういう意味だ。哈麻は政に熱心でない皇帝の傍で、常に宮廷内を牛耳って来た。
大臣らの任命も解任も、全てその一存で決められた。しかし、そもそも皇帝を即位させたのは托克托の養父。
托克托と哈麻は皇帝にとって、云わば矛と盾のようなものだ。どちらが欠けても、反対勢力が攻めて来る」

それは嘘ではないのだろう。王妃媽媽も王様の御言葉に頷かれる。
此度の角力で手に入れたかったのは唯一つ。
俺のあの方が安心して眠れる、静かで温かな夜。
明け方の俺の身動ぎ一つで、目を開けたりせぬように。
それが取り戻せれば、元が生き延びようと滅びようと、知った事ではない。
国交を絶った今、余計な事など知りたくも関わりたくもない。

雷が運んだ梅雨の終わりの雨。民が待ち望んだ慈雨。
窓を、そして殿の瓦屋根を叩く烈しい音。
金の燭台に揺れる、煌びやかな蝋燭の火。
その中で王様は独り言のように、もう一度呟かれた。

「元が終わる・・・」

 

 

 

 

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