2016 再開祭 | 寝ても 醒めても ~ 내 꿈 꿔 ~・結譚(終)

 

 

 

 

耐えがたいほど息苦しいのは、湿りを帯びた雨降り前の空気の所為か。
床に広がり赤黒く変わる血溜まりの、噎せるような血の臭いの所為か。
それとも俺の大切な二人が俺を余所に額を突き合わせ笑みあう所為か。

判っているのは、ただ悔しい事だ。腸が捩じれるほど悔しい。
経絡を、郄穴を教えられなかった事も。この腕を斬らなかった事も。
小さな白い手や細い指先が、他の男の血で染まっている事も。
それが俺の兄の血、家族の血だとしても。

寝ても醒めても俺の事だけ見て欲しいこの方が、たとえヒドでも他の男のお蔭で医術を得る。
たとえヒドでも他の男が、俺がするより先にその身を挺してこの方に大切な何かを教え込む。

この二人を大切に思う事は変わらない。何があると疑う訳でも無い。
だからこそ、尚更に悔しい。俺に出来ぬ事をやってのけたヒドが。
それを受け止め、こうして信頼しきった笑みを浮かべるこの方が。

音高く三脚めの椅子を引く。
椅子の足が木床を擦る、大きな耳障りな音が響き渡る。
普段は音など立てぬ俺の暴挙に、ヒドがちらりと目をくれる。

椅子にどかりと腰掛ければ、次に遅れてこの方が鳶色の瞳を丸くする。
そんな瞳で見つめても無駄だ。
二組の視線を無視したままで、唇の先で低く呟く。

「ヒドが心配なら、早く縫ってくれ」
「・・・はい?」
突然変わった声の調子に、この方はきょとんと首を傾げる。
ヒドは耐えられぬと言った様子で低く笑いながら、この方が卓に上げた腕を肘から曲げてみせる。

「早く縫え」
「は、はい。じゃあ、その痺れの点穴を」
「ヨンア」

ヒドは俺に向けて血濡れた腕を示して
「教えてやれ」
そう言って顎をしゃくり、向き合うこの方を指す。
「ヒドが教えろよ」
「・・・ヨンア」
「取り掛かったのはヒドだろ。最後まで教えてやれよ」

ヒドは呆れたように息で笑うと、腰掛けた椅子の上で大きく目の前のこの方へ膝を進める。
今にも降りそうな黒い空が覗く窓、蝋燭すら灯さなくても熱い部屋。
ヒドが進めた分その膝同士が触れ合いそうで、俺の頭は一層熱くなる。

「女人」
「は、はい」
そのヒドの掠れ声も、何処か熱を持って暗い部屋に響く。
「縫ってくれ」
「麻酔も鍼もなしで縫うんですか?このまま?これ、こんな大きい切創だと、縫う時はかなり痛いと思うけど」
「構わん。どうやら女人の夫は点穴を教えたく無さそうだ。それとも」

眸を逸らしていると言うのに、この視界の隅でヒドの無疵な方の手が上がるのが判る。

「俺が教えるか。手取り足取り」
「・・・・・・!」
この方がご自分の白い手に伸びて来そうな、ヒドの指先に息を呑む音。

「慣れておらぬだろうからな。俺なら丁寧に教えてやるぞ、隅ず」
「ふざけるなよ!!」

視界の隅でヒドの伸ばした指先がこの方へ触れる直前、堪え切れずに椅子を蹴る。
主を失った椅子がけたたましい音を立て、勢い良く床へ横倒しになる。

「遊んでるのか!」
「ちょ、ヨ」
「あなたもあなただ、厭と言えば良いんだ!」
「待ってって、ヨン」
「何を待つんだ。俺の妻が血に塗れるでは足らずに、その手で好きに触れられるまで待つのか!」

頭が痛む程の大声で怒鳴りながら血相を変えた俺の仁王立ちの姿を見上げ、丸い瞳がなお丸くなる。

「お前もお前だ、ヒド。一体何なんだ」
「・・・何と言われてもな」
「腕でも足でも俺が斬った。郄穴でも点穴でも経絡でも、俺が幾らでも教えた!」
「それで上達するか」

ヒドは冷静な表情を崩さず、俺を真直ぐに見た。
「お主を護りたい一心のこの女人は、お前が己を斬りつけたら冷静に経絡を探れるか。
点穴を取れるか。的確に鍼が打てるか。どうだ」
「それは」
「傷を負ったらお前はその後、兵達の鍛錬をどうする。歩哨をどうする。
肉が上がるまで半端な腕を振り回して、半端な鍛錬をつけ続けるのか。どうだ」
「だったら、先に言えよ!」

正論に打ち負かされて唇を噛み締め、そっぽを向いた俺の耳にヒドの低い声が届く。
「女人」
「はい」
「お前の男はこうやって死ぬ程お前に惚れ抜いている。判ったら学べ。
こ奴もこ奴の兵も、万一にも戦場でお前の力不足で命を落とさんよう」
「頑張ります!」
「お前の為ではない。お前の罪悪感など俺は知らん。但し」

突き放したような冷たい声に、思わず其方を振り返る。
ヒドは血に濡れた手甲を嵌めた手で、落ちた総髪の前髪を掻き上げた。

「お前の力不足でこ奴に万一の事有れば、俺がお前を殺す」
「ヒド!」
「よく分かってます、ヒドさん」
叫んだ俺の声など意に関さず、この方は平然とヒドの無遠慮な言葉を受け止める。

「そんな事になったら、私が誰より自分を許せない。だから勉強します。
ヒドさんに殺されるのはイヤだもの。この人の横にいる為に、私は絶対元気で生きなきゃいけないから」
「判っているなら、とっとと上達するんだな」
「はい!」

この方は頷くと、俺に向かって明るく笑んだ。
「ヨンア、教えて?早く鍼、打てるようにならなきゃ」
その血塗れの細い指が、握った俺の拳を開く。
開いた指の隙間をくぐり、掌を握り締めて揺らす。

「ほらあぁ、早く早く。ヒドさんの気が変わる前に。ん?」
この二人は一体何なんだ。何処まで本気で、何処まで馬鹿だ。
唖然とする俺の眸の前、この方はまだヒドの腕に触れたまま。
ヒドも振り払うでもなく、紅く染まる指へと腕を預けたまま。

ヒドは言った。猿回しの猿だ。
ふざけるな。本当の処、猿はこの俺自身だった。
奴に踊らされ、まんまと一杯喰わされた。俺もこの方も。

「ヒドさん」
俺に指先を握られヒドの合谷を探ったこの方が、鍼先を確かめようと目の高さへ上げ、息を整えながら言う。
「何だ」
「この人のためにたくさんしてくれること、本当に嬉しいですけど」
指先に鍼を持ち直すと的確な場所を押手で押さえ、ゆっくりヒドの息に合わせて笑う。

「あんな風に目の前で腕を斬ったりして、夢に出そう。自分の事ももっと大切にしてあげて。
私にとっては、ヒドさんも大切です」
ヒドがその言葉に息を吸った瞬間この方の刺手の中指が戻り、鍼先が的確に合谷を捉える。
ヒドは掌へ鍼を置いたまま、横の俺を見上げて言った。

「本当に読めん」
俺はその声に肩を竦めて首を振る。
「絶対に諦めん」

俺の言葉に心から満足気に頷くと、ヒドはこの方へ不愛想に言い放つ。
「合谷に打って終わりではない。早く縫え」
「はい!」
この方は大きく頷くと、天界の道具を詰まった医療道具の匣を急いで手許へ引き寄せた。

こうしてこの方が力を尽くす理由も、ヒドが身を挺して教える理由もよく判っている。
それでもこの方はこれから鍼を持つ度、今日の事が何処か過るだろう。
寝ても醒めてもこの方の事しか見えぬ俺には、僅かとはいえ屈辱だ。

「ヒド」
「何だ」
この方に預けた腕を縫われながら俺を見るヒドに、俺は眸を逸らして言った。

「夢にまでは、逢いに来るなよ」

何を言いたいのだという顔で、ヒドが俺を見る。
下らぬこんな会話など耳に入らないか、ヒドの傷を縫い続ける真摯な横顔に心でだけ呟く。

夢で逢うのは、俺だけにしろ。

 

 

【 2016 再開祭 | 寝ても 醒めても ~ 내 꿈 꿔 ~ Fin  】

 

 

 

 

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