治療棟から薬草院を抜け、典医寺の大門へ続く広い前庭。
春空の下、あちらこちらで薬員たちが忙しそうに薬草の処理に精を出していた。
鍋で煮る者、刻んで干す者。選別する者、袋や箱に詰める者。
そんな者らの中を縫い真っすぐ走ったトギは、庭の隅の倉庫へ飛び込む。
倉庫の棚を慌ただしく一頻り確かめて後ろのテマンへ振り向くと、トギはその指で言った。
薬草はなくなってない。治療道具だけ持って出て行ったのか。
「どういうことだよ」
いきなり駆け出したトギに、訳も分からず後をついて来たテマンが首を傾げる。
トギは苛ついた顔で、諭すようにテマンに言った。
道具だけ持って行っても治療は出来ない。薬は必要だ。
切り傷や刺し傷なら軟膏や麻佛散。気水血の病なら証に合う薬湯。
ウンスはまだ薬湯の調合を全部憶えたわけじゃない。
私か先生が調合しないと、いつもなら薬は出さない。
トギは倉庫を見渡して、納得できない顔で繰り返す。
チェ・ヨンもテマンも、迂達赤の全員も、そしてキム侍医も畏れている、考えたくない言葉を。
病人が本当にいるなら、誰かに頼んででも薬草を持ち出すはずだ。
さもなきゃ薬草に詳しい誰か、すぐ薬草を手に入れられる誰かが、ウンスのそばにいるのか。
「じゃあ・・・」
テマンは口に出すのが怖くて、その後の声を濁した。
トギはテマンに頷くと、考え違いである事を祈るようにもう一度倉庫を見渡して指で言った。
本当に治療で出てったなら、薬草がなくなってないのはおかしい。
*****
「ねえ!病人はどこなの?」
これで何回目だろう。
思いながらウンスは枯れた声を張り上げて、もう一度同じ質問を繰り返す。
春の陽の射し込む、韓紙を張った白く明るい扉に向けて。
そこに人影は写っているのに、答は一言も返って来ない。
冷たい沈黙だけが、そんな病人はいないと教えている。
方向音痴で、一人で自信を持って迷わずに出歩けるのは自宅から皇宮大門までの大通り。
それに手裏房の酒楼や、市の大路。それくらいの場所しか記憶にない。
窓の外に広がる景色を見ても、今自分が何処にいるのかウンスにはさっぱり見当がつかない。
豪華な屋敷だった。
キチョルのあの中国風の広大な邸宅や、敬姫の住まう儀賓と公主の宮殿のような邸とまでとはいかないが。
それでもこの室内の立派な調度品は、相当高価な品々だろう。
そんな部屋に連れて来られてから、もう数時間は経っている。
21世紀の働く女の審美眼を侮るなと、ウンスはその調度品を見た。
あそこの、いかにも高そうな高麗青磁のツボ。
持ち上げて床に叩きつけて割ったら、真青になった家主が飛んで来て、顔が見えるかもしれない。
ウンスにも判っていた。こうして何度繰り返し質問しても、答なんて返って来ない事を。
疲れ切って枯れた自分の声だけが、空しく響く。
それでも影が映る以上、そこに誰か立っているのは間違いない。
「聞かれたら答えなさいよ、失礼ね!」
腹立ち紛れに行儀悪く、ウンスは小さな足で扉を強く蹴った。
その途端足首が妙な具合に鳴って、慌ててそれを引っ込める。
いざ逃げるチャンスがあれば、頼りになるのはこの足だけだ。
捻挫でもしたら逃げられない。その程度の危機管理能力はある。
ウンスは誘拐の騒動で乱れたお団子髪をほどくと、自分の指を櫛代わりにしてそれをバサバサ肩へ流し、後ろで低いポニーテイルに結び直す。
こんな目に遭うなんて久し振りだ。
最初にチェ・ヨンと出会って、キチョルや徳興君と揉めていた頃以来。
毒を打たれたりしないだけマシだと思うしかない・・・今はまだ。
そう考えそうになって、急いで首を振る。
そんな最悪の事態が起きるのは困る。私は帰らなきゃいけない。
ああ、すっかり平和ボケしてたから、あの人にもらった小刀をスネにも結んでない。
あの人に怒られるかしら。でもあれがあると慣れないから重いし、歩きにくいし・・・
一人そんな言い訳をしながら、扉の人影への直談判をあきらめてウンスは椅子に腰を下ろした。
昨夜の当直がまさかこんな事になるなんて、タイミングが悪い。
いったんは奪われた21世紀の縫合セットや鍼の入ったピンクのポジャギは、罪滅ぼしのようにウンスを閉じ込めた豪華な部屋のテーブルの端に置かれていた。
あの時急いで書いたせいで、そのピンク地に点々と黒い墨が飛んでいた。まるでハンドメイドの不器用な水玉模様。
それを見詰めて、ウンスは思う。
あの人に教えておくんだった、ハングルの読み方を。
見付けてくれるだろうか。典医寺の自分の部屋のテーブルに書いたSOSのメッセージ。
私はここよ、ヨンア。ここにいるから、早く迎えに来て。

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やはり 病人が… って騙されて
拐われちゃってたのね
平和ボケを 悔いる妻と
守れなかったと 悔いる夫
すでに 似た者夫婦だわ
もちろん互いを責めたりしないのよ
はやく むかえにきてー!