2016 再開祭 | 気魂合競・廿陸

 

 

「西方、チェ・ヨン」
呼び出しの声にヒドの隣で腰を上げると
「気の毒にな」

奴は黒鉄手甲の庇で陽射しを遮り、東方から出て来る男を顎で示した。
見た事のない顔だった。手裏房かも知れぬし、托克托の戦士かも知れん。
誰であろうと構わないと肚を決め、取組場の中央まで進み出る。

陽は中天を通り、今は西へ傾きかけていた。
まだ空を赤く焦がすには早い。
しかし此処まで傾けば、五戦以降の取組は明日になるだろう。

刻の猶予、今宵一晩の其れが吉と出るか凶と出るか。
今日の取組でのそれぞれの手を交換し合うゆとりは有難くもあり、此方の手の内が相手方に流れるという意味では厄介でもある。

何れにしろ此処で足を止める気などない。
前を塞ぐ敵は全力で倒す。
知る者だろうと知らぬ者だろうと。
怪我だけはせず、させず。

人垣の中、両手を固く組み俺を見詰める鳶色の瞳に微笑みかけ、その姿から眸を離すと総ての神経を目前の相手へ向ける。

まさに平凡を絵に描いたような男だった。
恐らくこの場でなく市井の大路で擦れ違ったのならば、注意も向けぬに違いない。
中肉中背。
筋骨隆々という体つきでもなければ、隠しきれぬ殺気を漂わせているでもない。
しかしその眼と眸が合った刹那、首の後ろの毛が逆立った。

違う。

市井で擦れ違っても必ず注意を向けた筈だ。
この眼に気付きさえすれば。

粗く削った木仏に鑿で一筋削ったような、細く切れ長の眼だった。
何処が白目で、何処が黒目なのか判別すらつかぬ吊り目。

その中に何の感情も浮かんではいない。
無理に押し殺しているのではない。
まるで石か木か、そんな物を相手にしているような錯覚に陥る。

いや、それ以上に無表情かも知れん。
木は育ち、葉を茂らせては落として四季を教える。
石でも夏に握れば熱く、冬に握れば冷たいものだ。

男にはそんな些細な歓びの欠片もない。
死を待っていた俺の投げ遣りさや、相手の返り血の温かさにだけ己の生を思い出していたヒドの凄惨さとも違う。

この男は、俺の知る高麗人ではない。
市井の民のような衣を纏い民のように振る舞おうと、高麗の民だけが持つ勢いも熱も、逆に恨や闇も感じない。

ただ茫洋として、涯も掴み処もない。
大きく広がる元の草原や空や大河のような。

托克托の戦士。恐らくその一人に違いない。
思ったよりも早く相対する事が出来たと、ようやくこの取組への慾がふつふつと沸き上がる。

これで良い。俺を前に尻尾を巻いて逃げる相手は要らん。
眼の中に感情が読み取れようと取れまいと、逃げずに相手をすれば満足出来る。

先刻のヒドの情報。奴と戦った男は関節が柔らかかった。
そしてこの眸で確かめた、アン・ジェを捻じ伏せた男の技。
この男は一体どう戦うのか。

そんな事を考える俺は今、笑っているのだろう。

この顔を見た木彫りのような細い眼に、初めて感情が過る。
風に吹き飛ばされる一枚の花弁より薄く頼りなく、瞬く間に跡形もなく消え去ってしまう。
だが過った事は事実だった。この眸には確かに見えた。

その花弁は懼れという名の色をしていた。見間違いでないのなら。

体の力を抜き、利き足だけを踏み締めて半身で構える。
頭の中から面倒な雑念は消え去り、相手の姿だけに焦点が合う。

「始め!」

奴の細い目が声の直前に俺の足を見た。
声と同時に、考える前に体が動く。

俺の足目掛けて鋭く低い蹴りが飛んで来た。
届く寸前に一歩前へ飛び込んで宙返りの態勢を取る。
奴の蹴りは既に消えた俺の影へと放たれる。

低い蹴りを放つために身を屈めていた男の空振りした足が生んだ一瞬の隙を突き、両足で奴の首を挟み込んで捩じる。

頭を下にぶら下がり両膝を奴の肩に掛け、それを支点に腹の力で上半身を跳ね起こす。
起こした勢いを使ってそのまま首に巻いた足へ全体重をかけ、奴を地へ押し倒す。

人の足は腕の数倍の力がある。
首を挟み込まれた奴は呼吸すら禄に出来ず、昏倒するように倒れる。

巻き込まれ縺れ込んで倒れぬよう、奴の背が土に付く直前に膝を外し奴の肩後ろから両脛を抜く。
最後にその肩を踏み台にして前に飛び出る。

「決まり!」

奴の体が白い土煙を立てて倒れると同時に、審判の声が響く。

この速さで残る男らの全ての取組が終わるなら、決勝は明日まで持ち越さずに済むだろう。
それが良い。この角力大会に日を跨ぎたくない。

出来るなら疾く済ませてあの方を取り戻し、托克托の遣いと話を済ませ、楽な気分で明日を迎えたい。
俺はそれだけ願いつつ、まだ十分に明るさを残す空を仰ぎ見た。

 

*****

 

やりにくいな。
俺とチョモは互いにしかめ面で気まずい目を交わし合う。

まさか迂達赤同士で当たるなんて、何を考えて組合わせてるんだ。そう考えながら首を振る。
いや、迂達赤がこれだけ残っていれば、遅かれ早かれ当たるのは仕方がない。
ただ気がのらないだけだ。普段の鍛錬ならともかく、こんな人垣に囲まれて勝敗を決めるなんて。

「トクマン、チョモ!」

その時聞こえた隊長の声に、俺達は顔を上げ振り返る。
隊長もテマンもこちらを見たまま、それ以上何も言わずに頷いた。
真剣に取組めという事なんだろう。
別に手を抜くつもりはないし、チョモも同じ思いのはずだ。
何故って隊長やテマンと一緒に固まっている一団の中。

まっすぐこちらを見ていて下さるハナ殿を、もう一度確かめる。
俺を見ていて下さるのは、チョモを知らないのが理由かもしれない。別に俺を応援して下さっている訳ではないかも。
それでも負けたくない。無様な姿を見せたくない。
そうやって一歩ずつ近づいて行けば、もしかしたらいつか気付いて振り返って下さるかもしれない。
だから。

「チョモ」

最後に東西に分かれる前に、奴に向かって声をかける。
振り向いて目で問うチョモに

「恨みっこなしだ。俺は本気で行く」

告げると奴は俺の背後、全く見当違いの方を見て深く頷いた。
その視線を追いかけて肩越しに振り向くと、見えたのは長椅子に腰を掛け、ヒド殿と並んで長い腕を組む大護軍の姿。
俺達二人の視線に気づくと、大護軍は顎先で小さく頷いてくれた。

「俺だって大護軍の前で無様に負けたくないんだよ、トクマニ」

じわりじわりと傾いていく、けれどまだまだ熱く眩しい西日の中で、チョモは勝気な声で言った。

 

 

 

 

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