2016 再開祭 | 宿世結び・弐乃夜

 

 

月も出てない闇の中、俺は母屋の北屋根の上で大あくびをした。
じめじめした夜の空気は、あくびくらいじゃすっきりしない。
汗をかいたわけでもないのに腕にまとわりつく袖をもうひと折捲って、背中の矢筒を揺すり上げ、真っ暗な庭を見渡す。

まるで通りの一角を飲み込むくらい、相変わらず本当にでかい邸だ。
旦那が天女と暮らすにはふさわしいけど、あの人にとっちゃ心配の種でもあるんだろう。
俺は最後にもう一度、闇の中に目を凝らした。
危なそうな奴がうろついてないのを確かめて、屋根の上で身を翻す。

「旦那!!」
門をくぐって来た影を見つけて、俺は立ち上がると大声で呼んで走り出す。
ふらりと手裏房の隠れ家の酒楼に現れた旦那は、まとわりつく俺に煩そうに手を振った。

東屋の木の長椅子に腰掛けると旦那の向こうで守られてる天女が、でかい体越しにこっちを覗き込んで
「久し振りね、シウル君。元気だった?」
旦那の分まで愛想良く言って、にこにこ笑う。

こうして旦那の嫁になっても天女は綺麗すぎて、その目に見られると少し緊張する。
「全く。天女が居てくれるからいいようなもんの、天下の大護軍は相変わらず愛想がないね。
挨拶くらいおしよ!」
「マンボ姐さん!」

天女に明るく呼ばれた姐さんが、旦那の卓の上に太ったチャムドゥの皿を置いて、呆れたみたいに鼻を鳴らす。
その皿に伸ばし掛けた旦那の手を叩くと、マンボ姐さんは叱るみたいに言った。
「あんたに出したんじゃないよ。天女、たくさん喰いな」
「はーい!」

不思議な人なんだよな。天女だからか。こんなに綺麗なのに、他の女に嫌われる事もない。
口も悪いし気も荒いマンボ姐さんも、たまにここに顔を出す旦那の叔母さんって人も、天女が可愛くて仕方ないみたいだ。

マンボ姐さんは天女に頷くと、次にヨンの旦那に向き合った。
「飲んでくんだろうね」
だけど大酒呑みの底なしには珍しく、旦那が首を振った。
「・・・いや、止めておく」
「へえ、珍しい事もあるもんだ!こりゃあ明日は雪だね」
「宅が空だ」
「ふーん」

マンボ姐さんは興味を持ったみたいに眉を上げると、ヨンの旦那のはす向かいに腰掛けた。
「あの夫婦もんはどうしたのさ」
「留守だ」
「おやまあ、愛想尽かされたのかい」

旦那は首を振って、でかい溜息を吐いた。
「とにかく留守だ。酔いどれる訳に行かん」
「じゃあ飯を喰ってきな」
「いや、その前に」
「シウラ!」

旦那の声を邪魔するように、マンボ姐さんが俺を呼ぶ。
「判ってるよ、姐さん。今夜からチホと交代で様子を見に行く」
俺が呼び声に応じると、姐さんは満足顔で頷いた。
「それで良い。さ、もう話は終わったろ。クッパしかないよ、さっさと喰いな」

姐さんの声に、天女が嬉しそうに手を叩いた。こんな綺麗な顔して、天女なのにクッパかよ。
その取り合わせが妙におかしくて噴き出すと、俺の隣の旦那は不思議そうな顔をして、俺の横顔をじっと見つめた。

 

*****

 

乙夜の北屋根の上、静かにシウルの気配が消える。
まだまだ。こうして離れて気配を読まれるようでは。

月も無く昏い寝屋の中、たった一つの灯は白く浮かぶ寝顔。
此方が頭を下げる前にマンボに仕切られた衛の許、クッパやらつまみやらで腹を膨らませた方。
そして帰宅すると這うようにしてようやく風呂を使い、寝台に倒れ込むなり寝息を立て始めた。

俺が風呂を浴びて戻った時には、罪のない赤子のような寝顔ですっかり眠り込んでいる。
ご自分で出しておきながら、その宿題の今日の答も聞かぬまま。

どれ程疲れていても、泥のように眠っていても、寝台を独り占めする事は無い。
その寝台の半分は計ったように、いつでも俺の為に空いている。
必ず戻ると知っているとでも言うように。

其処へと滑り込みこの腕を細い首の下へ差し入れれば、必ず胸へ顔を寄せてくる。
起きているかと見つめても、小さく響く深い寝息は乱れない。

そんな事などあるのだろうか。眠っている時まで俺を待つなど。
己もこうして待っていたのだろうか。長く離れた別々の夜を。

枕を頭に横伏せで寝台の脇を少し空け、この方の大きさの隙間を腕に抱き、待って眠っていたのだろうか。

そうかもしれない。けれど空いていたのは寝台よりも心の中。
丁度この方の大きさの穴が、抜け落ちたように空いていた。
王様も役目も朋も迂達赤も、誰一人埋める事など出来ぬ穴。
其処へこうして戻ってくれた。空いた穴をすっかり埋めてくれた。

その穴は、あの時離れたから穿たれたのだろうか。
それなら何故この方とだけ、結跏趺坐の意識の底で逢えるのか。
今までどれほど望んでも、誰とも会えた事は無い。
朧げに覚えている母上とも。亡くなって以来話したかった父上とも。
武芸を授けてくれた師父とも。失ってあれ程苦しかったメヒとすら。

この方だけが逢いに来る。笑って其処に立っている。
何事もない顔で横に座り、いつもの明るい声をかけ、そしてこの眸を覗き込む。
亜麻色の髪を揺らし温かい手でこの掌を握り、そしていつものように手を振って消える。

出逢った事が縁というなら、それはいつ結ばれたのだろうか。
天界で初めて見つけ眸が離せなかったのは、王命を果たしたからか。
考えても答は出ん。
ただ一つ判っているのは、来世も、また来世も俺はこの方を探す事。
肩に担いででも攫う事。そして遠回りをして答を知る事。

幾度も、幾度でも。

この首元に顔を埋め、胸で甘い寝息を繰り返す方。
次こそは待たせたくない。こんな風に寝台を空けさせるほど。
待つ事に慣れきってしまうほど、淋しい思いをさせたくない。

来世では金の輪をつけて生まれて欲しい。互いの指に嵌る揃いの輪。
心の臓に繋がる輪を、俺にだけ見えるように。見つけられるように。
見つけたなら離さない。遠廻りなどしたくない。
真直ぐあなたへ駆けて行く。そして次は俺があなたに教えたい。

あの一つで想いの全てが伝わる、何より大切な天界の言の葉を。

 

 

 

 

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