先刻まで大騒ぎだった人垣が、水を打ったように静まり返る。
アン・ジェの力量は若い頃から知っている。
内功遣いでない故に赤月隊には入隊しなかったが、隊長が親交を持つほどの父上の許、奴も若い頃から鍛錬には励んでいた。
先の上官らが犬猿の仲だった鷹揚隊と互いの代で歩み寄って以来それぞれの隊員の交流もあり、意思の疎通もうまく行っていた。
近頃は奴と共に戦場に立つ事も幾度かあった。
共にこなした鍛錬や戦場で奴の技量は判っていた。
チュンソクの手縛の巧みさやテマンのような素早さには及ばずとも、奴の技は鷹揚隊でも一、二を競っていた。
与った護軍の官位に恥じぬ程。
その男が今何が起きたかも判らずに、呆然と地に転がっている。
始めの掛け声の直後の、皮胴着の男の動きの素早さ。
勝負はほんの一瞬で決まった。
始めの声と共に皮胴着の男は腰を落とし、肩から突込むようアン・ジェの腰にぶち当たるとそのまま腿を抱え込み、容赦なくそれを掬った。
奴は迎え撃つ隙もなく抱えられた足を掬われ、そのまま烈しく肩を地に打ち付けて大の字に転がった。
息つく間もない速攻に観客の人垣は歓声を上げるのも忘れ、地のアン・ジェと、勝ちの喜びすら浮かべぬ無表情な皮胴着の男を交互に見た。
「き、決まり!」
ようやく審判の男が声を上げる前に、俺はすでに人垣の中にコムを見ていた。
奴は俺の視線に皮胴着の男を改めて目で示してから頷いた。
奴を倒したのは、やはりこの男か。
タウンが言っていた。男はコムの首に腕を巻き付けそのまま投げ、勢いで上に乗って勝ちを決めたと。
角力に限らず、武器を用いず直接拳を振るうような白兵戦では己の決め技、得意の攻めがある。
あの皮胴着の男はコムには首を決め、アン・ジェには足を取った。
逆ならば判る。巨きなコムなら足を取り、比較的体の大きさの近いアン・ジェの首を取る方が楽だ。
それを悉く裏を掻いて来る。
決め技も読めず、攻める隙もない相手。
このままなら何れ当たるかもしれん。
他の奴らが当たるくらいなら、己で直接倒してみたい。
コムが倒され、続いてアン・ジェ。
奴らが望もうが望むまいが、俺の身内に付けられた土は付け返す。
「・・・なかなか面白いな」
既に托克托の文を運んだ、あの遣い手と前回当たっているヒドが俺の隣で呟いた。
「俺が当たった遣い手はあの素早さには及ばなかったが、関節が恐ろしく柔らかかった」
「そうなのか」
「何処を掴んでもその柔らかさで決めきれなかった。最後は力で投げた。速さはないが、あの男の攻めと何処か似ている」
「・・・ふむ」
今目の前にいる無表情な男は、文を運んだ男の一味なのか。
あの文にあった獅子とかいう奴か。
柔と剛。相反する何方も手縛には必要と理屈では判っているが、その両方を持ち合わせるのは実際にはなかなか難しい。
ヒドの情報に頷きながら、倒れたアン・ジェの動きを見詰める。
無暗に騒ぎ立てれば、鷹揚隊護軍の奴の沽券に関わり兼ねん。
ゆっくり胸の中で三数え、アン・ジェが起きぬのを確かめてから椅子を立ち、人垣向こうへ眸を投げる。
コムやチュンソク、テマンが並ぶ人垣の中、あの方はすぐに気付き人垣から走り出る。
そして転がるアン・ジェの脇へ駆け寄り、土の上へと膝をついた。
「分かりますか?」
「ゆっくり息をしてみて下さい」
「指、見えますか?これは何本?」
「右を下にして、半分寝返り打てますか?ちょっと支えますね」
「うん、大丈夫ですね。じゃあ今度は反対側に」
此処から問いに答えるアン・ジェの声は聞こえない。
あの方は奴をあれこれ質問攻めし、脈を計り、後頭部と肩を主に触れつつ確かめ、そして顔を上げると審判たちに頷いた。
「打ち身だけです。でも念のため日陰に簡易べ・・・えーっと、椅子を集めて寝かせてあげて下さい」
「は、はい」
人垣から飛び出した賞品のはずのあの方の声に、審判の男らは指示どおり取組場の軒下の日陰に簡素な長椅子を並べた。
まだ取組前の鷹揚隊員らが手近の店先に飛び込み、裏から戸板を運んで来る。
俺は迂達赤と共にアン・ジェの体を支えその戸板に乗せる。
「気を付けてね、落とさないで。ゆっくり運んで」
気が気でなさそうなあの方の声を小耳に、それぞれは頷きながら戸板に乗せたアン・ジェを並べた椅子まで運ぶ。
そして出来る限り静かにその上へと寝かせた。
奴はその間も目を確りと開けたまま、戸板を運ぶ鷹揚隊の隊員の顔を見詰め
「他の奴らには口外するなよ」
と、この期に及んで強がりを吐く。
戸板ごとアン・ジェを運ぶ鷹揚隊の副隊長が困ったように頷き返し奴を見た。
「無論俺達は絶対に。でも隊長・・・この見物客の多さでは隠しても広まるかと」
アン・ジェは移された椅子の上から首を傾け人垣を眺める。
そして己を見詰める視線の多さに、無言でうんざりしたような息を吐いた。

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アン・ジェさんまで
倒した皮ベストさん…
ヨン、大丈夫??
ウンスの為もあるけど
コムやアン・ジェさんの
仇をとらないとね!
油断しないでくださいね(^-^;
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強がりが出るぐらいだから
アン・ジェも大丈夫そうね
日頃の鍛錬のタマモノ。
それにしても…手強そう。