2016 再開祭 | 木香薔薇・廿陸

 

 

春の日暮れが好きだ。

桃色から山吹へ淡く色を変えていく西の空。
縁を金紅に染め、空の色を透かす薄白の雲。

骨の芯まで悴む雪の夕も、蝉声に急き立てられる夏の夕も、紅葉の鮮やかさと対を成す秋の夕も。
長い日の終わりに、始まる夜の最初に、あの方と逢える。
戦場で一人眺めぬ限り、すっかり夕暮れが好きになった。

典医寺へ向かう足取りも心も軽い。今朝とは大違いだ。
説得にしくじり逆に説き伏せられ、若造の懸想を知っていながら送り出さざるを得なかった今朝。

昨夜あの方はおっしゃった。様子を診て来る。心配するな。
そして今朝侍医は言った。あの方と俺の関わりを伝えて来る。
それが成されれば、もう此方を逆撫でするような事はない。

たとえ懸想したからと、いや、懸想したなら尚更に。
惚れた女人に夫がいれば諦めて当然。諦めぬなら諦めさせる。
それでも奪いに来ると言うなら、此方も容赦する必要はない。

それ程の気概があるなら話は別だが、国子監入学まで成した貴族の子息が俺と一戦交えるとは思い難い。
それで良い、多少苦々しい思いはしたが、全てが収まれば。
あの方に手を焼くのは覚悟の上。その鈍さは重々承知。
この懐に戻って来れば、それで全てが終わる。

上機嫌で典医寺の門に踏み込めば、朝とは明らかに違う俺の様子に薬員や医官の顔も綻びる。
「チェ・ヨン様」
「御足労様でございます」
「大護軍様、御医が診察部屋でお待ちです」
口々に言いつつ頭を下げて、安堵したように診察棟への道を開ける。
「判った」

それに小さく顎で頷き、開かれた道を足早に辿る。
さすがにこれ以上足を早めるのは気恥ずかしい。
どれ程あの方に逢いたいのかを気取られそうで。

今更どの目を気にするでもない。今まで散々醜態を晒して来た。
典医寺でも迂達赤でも、それどころか王様の御前でも。
それでも俺の醜態があの方の醜聞に繋がる事は避けねばならぬと、最後の理性の糸にしがみつきながら。

庭を抜け道を抜け木の階を下りた最奥の診察棟、確かに侍医は其処で俺を待っていた。
診察部屋の前に一人きり。
薬園の水路の一本の脇に佇み、春の桃色の空を背景に、今朝の俺の如き苦々しい表情で。

奴を捕えた俺の眸を見つめ返すと奴は頭を下げ、足早に近付く俺に向け情けない声で呟いた。

「私もしくじりました、チェ・ヨン殿」

 

「ヨンアにお願いがあるの」

侍医と共に私室へ入った途端、あの方はそう言って駆け寄った。
飛び込んで来た勢いを腕に受け止め、小さく温かな掌を額に、頬に、そして頸に感じる。

いつもの日暮れ。春の陽は長く、まだ窓外は明るく、脇に佇む侍医が邪魔で。
最後に手首の血脈を確かめる指が離れるまで、無言で待ち続ける。
たとえ何があろうと、どれほど疑問が溢れようと、今は俺を診て下さっている。
「・・・うん、大丈夫。お帰り、ヨンア」

鳶色の瞳が三日月に笑む。大丈夫な訳がない。
誰よりこの脈を知るこの方には判っているはずだ。
今の俺の裡に、口には出さぬ声が溢れている事が。
これ程の疑問が胸に沸きながら、脈が変わらぬはずがない。

細い指が離れた刹那、此度はこの指がその腕を掴まえる。
「どういう事です。願いとは」
「座ってくれる?先生にも、あなたにも話したいから」

侍医は俺と眼を合わせ、頑迷に動かぬ俺を促すように先に卓まで進み、置かれた椅子の一脚に腰を下ろす。

何を暢気に座っている。お前が今朝請け負った。この方が俺の妻だと伝えて良いかと。
応と答えた。諦めねば体に叩きこむと。それをしくじったとは、一体如何した事だ。

怒鳴りつけたいのを堪えて卓まで歩を進め、無言で腰を下ろす。
この方は俺達の着席を見届け、ようやく俺の横の椅子へ腰掛ける。

真剣な横顔。こういう顔の時は碌な事がない。
治療を嗾けたのなら別だが、今の俺にとっては碌な事にならん。
「まず今日の問診の時。先生、テギョンさんの寝台を見た?」
「寝台、ですか」

目の前で前置きもなく始まった医官同士の話に口は挟めない。
俺にも聞かせようとしているのは判る。静聴するしかない。

「濡れてたわ、シー・・・寝台の、敷布が。それもかなりの量で。寝てた人の形が分かるくらいよ。
最初に疑ったのは発熱だった。
だけどあのソンヨプさんは、昨夜はテギョンさんは熱を出してないって言った。
あれだけ忠実な人だし、捻挫のことはもちろん知ってたんだから、一晩中注意してたはず。嘘だとは思えなかった。
ぐっすり寝たって思ってるところは、ちょっとのん気だけど」

相変わらず妙な処に目の届く方だと、その観察眼に舌を巻く。
そんな事があった訳か。そしてつまり、奴の寝所に通された。
余程親しくない限り、貴族が寝所に来客を通す筈もないのに。

「それから、そのシーツが乱れてた。捻挫したんだから、寝返りも大変なはずなのに。
一晩中体勢を変えられなくて、朝になって体が痛いんなら分かるけど」
「・・・寝台上で休んでいて、私たちが伺って慌てて下りたのではないでしょうか」
「それなら足元の敷布まで一面乱れるのは変よ。座ってたところを中心に一部だけが乱れる」

正論を返され、侍医は黙って考え込んだ。
しかしこの方の口は止まらない。

「それから、癖なのかもしれないわ。テギョンさんは話してる途中に何度も拳を握ってた。かなり強くね。
ストレス反応じゃないかと思う。あんな風に拳を握るくらい。途中で手の平の汗を服で拭いたでしょ?
確かめてみたけど、やっぱりかなり汗をかいてた。スト・・・気鬱は、肝に出るのよね?脈診は?」

掌の汗。どう確かめたのかなど、訊きたくもない。
卓向かいからやたらと此方を気にする侍医の目を避け息を吐く。
俺の妻だと知り、諦めればそれで良い。怪我人を見捨てろと頼んでいる訳ではない。
侍医が後を引き受ければ、全てが丸く収まる。

判っている。これがこの方の診立て方だという事は。
相手の立場に立てる心、それを救える天の技、そして何処までも走る足を持つから、心技体揃って天医なのだ。

心だけでも、技だけでも、足だけでも足りぬ。
そして俺はあの時、その心を曲げてソンゲを診ろと頼んだ。
あの男の立場を憎む事はあろうと、決して立ちたくないこの方に、心を曲げてくれと言った。
さもなくば後でもっと傷つくからと。

それを頼んでおきながら、今更俺が不快だから慮れと要求するのは筋違いも甚だしい。
だからもう良い。此処で全て終わってくれるなら構わない。
今宵もう一度春の縁側でこの方を抱いて、悔し紛れに柔らかい髪を一筋引いてねだらせて下されば。
誰の事も見るな。誰の許へも行くな。あなたは一生此処に居ろと、無言のこの指で伝えさせて下されば。

そんな俺の春の夢とは裏腹に、医官二人の神妙な話は続く。
侍医は相変わらず俺を気にしつつ、渋い顔で吐き捨てた。

 

 

 

 

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